『歩道橋の魔術師』書評 東京猫町倶楽部 豊崎由美書評講座 第1回 

  • [2015/09/20 20:11]

最近はまっている猫町倶楽部では、書評家・豊崎由美さんによる書評講座が行われている。昨年、名古屋猫町で全3回あったのだが、なかなかの盛況ぶりらしく、名古屋猫町のメンバーに話を聞くと実に愉快そうなので、いつかは自分も参加したいと思っていた。
だから東京で8月に開催されると聞いたときは躊躇なく応募した。

書評は昔、官能小説のレビューをエロ雑誌に書いていたこともあり、まったく勝手を知らないということもない。しかしライター業ももう2年以上もしてなく、ブログも更新が滞って長い文章を書くことにいささか不安があった。
だからこそ参加する意義もあるのだが、課題本の1つである『歩道橋の魔術師』を読了し、いざ書いてみる段となるとやはりかなり苦労した。

どうにかこうにか書いて提出したのだが、内容はともかく文章の出来は今ひとつだなぁと思っていた。いちおう記録としてここに載っけてみようと思う。

ちなみに想定媒体は『サンデー毎日』。
死んだ父親が愛読していた雑誌だ。


歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)
呉明益
白水社
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 台湾の話なのに、これはなんとも懐かしい気分にさせてくれる連作小説だ。
 舞台は台北市にかつてあったという中華商場。三階建ての横に長い建物が八棟も列なったこの巨大商店街は、洋服、眼鏡、レコード、食料品、古書、時計、レストランなど千軒以上の店があって活況を呈していた。建物には狭いながらも住居スペースがあり、主に商場で働く家族が住んでいた。
 この小説は、かつてその中華商場で暮らしていた子どもたちにまつわる物語である。現在、大人になった彼らが、当時を振り返る形で語られていくのだが、これによりその時の子どもが今はどういう大人になったのかをさりげなく提示することになる。
 彼らが子どもとして過ごしたのは、一九八〇年前後のこと。
 日本でいえば昭和50年代。高度経済成長から安定成長期に入ったぐらい。バブル景気が始まる前にあたる。ちょうどその頃、日本の大都市近郊では個人商店が密集する商店街が今よりも活気があって、そこから少し離れたところに公団住宅の団地が次々と作られ、大量に流入してくる地方出身者たちを受け入れていった。当時、外国からは「ウサギ小屋」などと揶揄された団地は子どもであふれかえり、今のように少子化が深刻な問題になるとは思いもしなかった時代であった。
 台湾と日本の違いはあれ、同じ時代ということもあるのだろうか。この小説の中で描かれるコミュニティが、その時の団地住まいの雰囲気とよく似ていて、異国の話なのにどうしてか郷愁のようなものを感じてしまう。
 両親の夫婦げんかが絶えない家に帰るのがいやで家出してしまう少年。大して中身はなさそうだが、ギターだけはカッコよく弾く青年を、好きになってしまう美人と評判の娘の話。小学生にしては背が高く、身体も廻りより早く女﹅になってしまって、それゆえに同級生から浮いてしまっている少女の話、かくれんぼをしていたら仕立屋の仕事部屋でその後、秘密にしなくてはいけない事を見てしまう少年の話など、子どもが大人になっていく過程で体験する出来事、見聞する事件などが十篇のストーリーとして綴られている。
 こうやって書くとどれもありふれた話のようにも聞こえるかもしれないが、その読後感は実に見事としかいいようがない。呉明益のストーリーテリングの妙と言ったところか。
 たとえば子ども時代特有の、大人になってからはかなり気恥ずかしいはずの呼び名を、あえて使わせていたり、戦後しばらくして世界的にブームになった切手収集のための切手売りの話を挿れてみたり、ノスタルジーへと誘う芸がいちいち細かい。
 特に表題にもなっている『歩道橋の魔術師』の存在が効いている。商場の棟と棟の間を結ぶ歩行者通路にいつも陣取っているこの謎めいた魔術師は、第1話目以降はあまり登場しなくなっていくのだが、どうやらすべての話の転換点に関わっているようで、その得意の魔術でもって、子どもたちを挑発しいてく。
 魔術師が一人の子どもに言う。「わたしはただ、お前たちの見ている世界を、ちょっと揺らしているだけなんだ。映画を撮る人間がすることと何も変わらない」
 それはいい小説とて同じだろう。呉明益の魔術に、遠く懐かしい子どもだった時の記憶を、呼びさましてもらってはどうだろうか?


全体の3位の支持はいただいた。だけどやはりというかなんというか、豊崎さんからは稚拙な文章だといわれてしまった。
確かにそうだよな。

次回は11月らしいので今から楽しみにしている。

豊崎由美の猫町書評講座@東京 第一回
http://www.nekomachi-club.com/report/24313

開催レポートは、2014年8月2日(日)になっているが、2015年の間違いだな。

東京国立近代美術館に行く 

  • [2015/03/01 23:23]

昨年の夏、猫町倶楽部の山本多津也さんに連れられて瀬戸内海の直島に行った。
現代アートの島として有名なこの島のことは、誘われた時点ではまったく知らなかった。それでも多津也さんの誘いに乗ったのはただただ気分をリセットしたい一心からだった。
その時の自分は精神的にかなりひどい状態だった。何を見ても何を聞いても感情が揺さぶられない。霧の晴れない鬱屈とした空気が薄い膜のように張り付いていた。
ちょっとやそっとの休みではとうていリフレッシュできないんではないかと思った。そんな時のお誘いだった。

行ってみたら直島は本当にすばらしい場所であった。
島のあちこちに点在するアーティスティックな創作空間もさることながら、一緒に行った猫町メンバーもよかったんだと思う。

直島に一泊した次の日のこと。みんなで地中美術館に出かけた。
最初に入ったのはモネの部屋。白い壁、踏み心地のいい白石のタイル、モネの5枚の睡蓮の画を自然の外光を使って見せるキャンバスは、その空間に独特の柔らかさと拡がりをみせ、居るだけでなんだか幸せな気分になれる。
圧倒されたのはその部屋ばかりでなかった。続く蒼い幻想空間のタレルの部屋、光と球体とが邂逅するウォルター・デ・マリアの部屋と巡り、それぞれ目を丸くしてはただただた佇んでいた。枯れていた心に大量の水が溢れ出す。

思いがけず満ち足りた気分を引きずったまま、地中カフェでジンジャーエールを飲み、そこでたまたま横に座った知り合いの女性編集者と会話をする。
話題はいつのまにか仕事の苦労話と愚痴に傾いていたのだが、しばらくして彼女は「直島にはできることなら1人で来て見て回りたかった」と言いだした。一緒に旅行に参加していた人に自分の担当の作家さんがいて、休暇なはずなのになかなか仕事気分が抜けないらしい。

自分はその言葉でハッとした。
そうか、せっかく瀬戸内海の島にやってきたのだから、誰にも気にせず1人で行動しよう。なにも集団の中に身を置くこともないだろう。

そこからは約束をキャンセルして別行動に。
1人で地中美術館を出て、坂の多いうねった小道を歩く。
坂の途中にある池には、水面に浮かぶ睡蓮とその上を低空飛行する蜻蛉。黄色いチョウチョも飛び回り。しばしたたずんではあてもなく歩く。そうこうしているうちに李禹煥美術館にたどり着いていた。

李禹煥とは現代アートではモノ派の代表格なのだが、その時点でその人がどんな人かわかっていない。ただ彼の創る、無機質だが意味ありげな造形物に、なにやら共鳴していたようで、いつまでも彼の作品の中でたたずんでいた。
わからないなりにも心地いい気分にはなれたのだった。

さらに気分のよくなった自分は李禹煥美術館を出て、小雨降る中、海辺に行き、磯の香りを嗅ぎ、素足を潮水につけたりしながら、無造作に置かれているようなアート作品を見て回った。

それが自分と現代アートの初めての出会いである。

今年に入ってからすぐ、東京猫町藝術部で東京国立近代美術館開催の高松次郎展を観にいった。
「高松次郎ミステリーズ」と名付けられたこの企画展だが、その日は猫町倶楽部のためにわざわざキュレーターの方が講演をしてくれて、高松次郎の作品を鑑賞する時も各コーナーごとに解説をしてくれた。

肝心の作品鑑賞だが、正直言うとキュレーターの方の講演と解説がなかったら、自分はまったくわからなかったのではないかと思う。
もちろん高松次郎自体はなんの予備知識がなくても楽しめる作家だ。
彼の影シリーズなどは、単純に綺麗だし幻惑的で面白い。
でも彼が本当に表現したかったことは、初めて観る人にうまく伝わっているのだろうか?
本当のところはわからない。

その2週間後には、『高松次郎を読む』という美術評論集が猫町の課題本になった。
この本を読んで自分はさらにびっくりした。
あまりにも意味がうまく飲み込めない。
むしろ講演と解説を聞いておかなければ、まったく歯が立たない本であった。

この評論集では唐突に、誰の何年に発表された何々という感じで、たぶんその界隈では有名なのであろう作品の名前が頻繁に登場する。
まったくそういったものに触れたことのない自分はその都度、ネットで調べてその作品を確認したりした。観ておくことが前提の評論なのだ。

評論なんて考えてみれば、作品に依拠している以上、それは仕方のないことのなのかもしれない。しかもたとえば文芸評論や映画評論は作品自体にドラマがあるのであらすじを書くことができる。全く読んでない、もしくは観てない人もそこでのあらすじで見当をつけることができる。
これが美術品となるとそうはいかない。そこにあらすじはないのである。
それ故に読むのにハードルが高くなってしまう。

その『高松次郎を読む』という評論集の中に李禹煥が書いた文章があった。そこには高松次郎からモノ派にいたるまでの流れのようなことが書かれていた。
そう、自分は高松次郎の作品を観ていて、どこか李禹煥の作品に似ているなぁと思っていたので、非常に興味深く読んだのだった。

読書会では、自分のテーブルに国立近代美術館のキュレーターの蔵屋さんが来てくれた。
自分が昨年の夏に李禹煥美術館に行ってその作品に触れていたこと、李と高松次郎は一見似ているようでどこか違うと感じることなどを話した。

すると蔵屋さんは、「高松次郎は幼少期に戦争を体験している世代だったんです。だから子どもの頃に世間の価値観がひっくり返ったことで、モノがあるということがなかなか信じられなかった人だと思うんです」
「たとえばここにコップがあるとして、これは本当にここにあるのか、もしも自分が振り向いて見えなくなったら、もうここにはないかもしれない。それはまた自分が本当に存在するのかということにもつながります」
「李さんは高松次郎と違って、そこにモノはある。それは疑いようがないじゃないかってところから始まるので、その出発点が違うのです」
「だから間違いなく先に高松次郎がいて、そのあとにモノ派の人たちが登場する。そういう順番で現れてくる」
「戦争を経験した世代とそうじゃない世代との違いと言えるかもしれません」

蔵屋さんが目の前にあるコップを指して説明した「コップのたとえ」はものすっごくしっくりきた。
その違いの感覚は、難しい評論を読み込んでなくても肌で感じるものなのかもしれない。

そのあと懇親会があったのだが、そこでも蔵屋さんと話ができて非常に楽しかった。
途中、なぜ「いんごま」なのか? と聞かれ、ままよと思い、今の仕事を打ち明けた。
そうしたらとってもおもしろがってくれた。

AV業界のタイトルやコピーの付け方に感心していたらしい。考えてみれば今回の展示名は赤松次郎と高松次郎を引っかけて「高松次郎ミステリーズ」というわけだが、この手のダジャレはAVのタイトルでは常套手段である。
その後、企画展の苦労話を聞いていたのだが、何か自分の仕事と共通する話だと思った。

どんなによい作品でも、足を運んで観てくれなければ話にならないし、高松次郎のような今ではわかりにくいクリエイターの仕事を紹介するのは、大変なことだろう。
作品理解には言葉を尽くし、効果的なタイトルとキャッチを考え、それをもとに宣伝していく。まったく振るわないこともあるだろう。
AVのプロデュースと美術品のキュレーターは似たようなところがあるなぁと思った。

昨日、あらためて高松次郎展に行ってきた。
前は猫町のメンバーと一緒だったが、1人で観る高松次郎はまた格別だった。
ようやく高松次郎に会えた気がした。