ところで、自分はAVを何本持っているんだろう?
- [2007/06/29 13:18]
本当は今日、マニュアルのデータをアップする予定だったんだけど、昨日、友人が家に押しかけてきてしまって作れなかった。
この友人って言うのがクセもんでね。
小学校の時以来のつきあいなんだけど、まぁ、とにかく自分の都合優先でこちらの事情なんてお構いなし。今回も突然やってきて、話したいことだけ話して帰って行った。
コイツ、基本的にケチでさ。まず手みやげ1つもってきたことがない。
たまに持ってくると思えば、自分が要らなくなったもの。つまり、ヤツにとってはもはやゴミになってしまったようなもの。酒を持ってくるわけでも、つまみをもってくるわけでもないのに、タダ酒・タダ飯はきっちり食って帰ったりする。
昨日は、沖縄に旅行してきたとか言って、旅先での話をさんざんしていたんだけど、旅行みやげのひとつもない。そういうことには気が回らない人間なんだな。
なんでオレはこいつとつき合ってんだろう、って思うことがしばしばなんだが、これが腐れ縁ってヤツなのかねぇ。
コイツは基本的に人との距離感がつかめないから、職場なんかでのトラブルが後を絶たない。そのたびに意見を求められるが、どう答えていいのかわからないことばかり。というか最後は必ずそいつへの説教になってしまう。
結構、キツいことも言っているのだが、それでも懲りずによくやってくるってことは、ひょっとして説教されにきているのかもしれない。それとも単に他に行くところがないってことか。
ヤツの話にはどこかユーモラスなところがあって、同じ話をするにしても自分よりそいつが話す方が断然面白かったりする。第一印象もいい。自分なんか取っつきにくいとか言われるタイプだから、羨ましくもある。
でも友人は少ない。子どもの頃は明らかに自分よりも人気者だったはずなんだが、今は自分の方が交友関係が広いんじゃないだろうか。
それと、女関係がだらしない。
世間知らずの若い女とばかりつき合う。
すぐに懇ろになって、とっかえひっかえ、使い捨て。
だまされる女も悪いんだろうけど、それにしてもひどい。しかも自覚していない分、なおさら質が悪い。
ヤツの色恋話も、微に入り細に入り、実におもしろおかしく話すので、ついつい引き込まれて一緒に笑ってしまうのだが、基本的に身勝手な人間なので、最後はだんだん興ざめしてくる。そうなるとそっちも結局自分の説教で終わることが多い。
この時する、ヤツの言い訳もあとで考えるとかなり面白いこと言ってんだが、やっぱり40過ぎてこんなふうにしか人とつきあえないのはヤバいだろ。
おもしろいのは、コイツは自分が性に対してテキトーな人間なのに、女性に対してはやたら貞淑さを求めるところ。性欲の強い女性は認めない。そういう女性がいるってことを話すとどこかさげすむところがある。
その友人に今年に入ってからAVを貸して見せ始めた。
淫語マニアの自分が持っているAVは基本、痴女ものに偏っているわけだが、ヤツは痴女で興奮する人間が理解できないと言う。ふざけているように見えるらしい。だから最初は痴女ものを避けていたのだが、もともと痴女じゃないもので持っているものは少ない。たちまち、尽きてしまった。
基本がケチで買ってまでセルAVを見てこなかった人間が、タダでAVを楽しめるようになった。エロの威力はいかんともしがたいんだろう、痴女作品を見るしかなくなって、結局、それらを見始めた。
趣味が合わないからといって、AVをやめる気にはならなかったらしい。
そのヤツが、昨日は痴女モノも悪くないなぁと言い出した。
そうは言っても、今まで貸していたのはS1とかアイポケとかの軽い痴女もの。
そこで、今回はいきなり熟女のこってりした痴女ものを貸してやった。
さて、どうなるか。
自分としては、いつか早乙女みなきや長谷川ちひろがキンタマ蹴り上げているFREEDOM作品を見て「興奮した!」とか言いださねぇーかなぁと思っている。
これもちょっとしたAV調教かね。
ところで、昨日、久しぶりに寧々さんのブログに行ったら、青木玲ちゃんと競演したってことが書かれてあった。玲ちゃんは限定的に復活だそうで、小沢菜穂みたいなもんなのかな。
自分はイエロー作品って買ったことなかったんだが、ここは一体、何が売りのメーカーなんだ? HPで商品を眺めていて今ひとつ伝わってこなかった…。
まぁ、いずれにしろ青木玲の笑顔が見られるかと思うと楽しみではある。
つーか、彼女の「叱られ淫語」 どうにかなんないスかねぇ。
今のムーディーズじゃ、無理かなぁ。
「おまんこがいっぱい」から淫語を考えてみる。
- [2007/06/27 23:22]
ちょっと長くなるけど早速、引用。
上野千鶴子のエッセイ集『女遊び』に収められ、当時、世間の耳目を集めた書き下ろしエッセイ「おまんこがいっぱい」は以下のように始まる。
わたしは良家の子女(!)だったから、思春期にひそひそ話や意味ありげなくすくす笑いとともに性情報が伝わる悪ガキ集団から、隔離されて育った。大きくなってから、おまんこというコトバを覚えたが、それはカントという英語や、ヴァギナというラテン語や、またはボボという九州方言と同じくらい、わたしには「外国語」だったから、カントと聞いてもちっとも顔が赤らまないのと同じ程度に、おまんこと言っても解剖学用語のようにしか響かないのだった。ちょうど性に目覚める頃、自分のうつぼつたる生理感覚や、周囲の反応で直観的にそれがタブーだとわかってしまうような禁止の感覚と、おまんこという四文字コトバがふつうなら結びつくところが、その連想がうまく形成されなかったのだろうと思う。おまんこ、というコトバを覚えてからのわたしが、おまんこ、と口にしてみると、周囲の狼狽ぶりや眉のひそめようがおもしろくて、それからというもの、おまんこというコトバは、他人がイヤがる反応を引き出すための、マジック・ワードになった。知り合いの六歳のコドモが、チンチン、と言うと母親がイヤな顔をするもので、ただ母親の反応を引き出したいためにだけ面白がってくり返しチンチン! と叫ぶのに、それは似ていた。母親がなぜイヤな顔をしたり、やめなさい、と怒ったりするのかよくわからないけれども、この魔法のコトバは、そのつど確実に母親の反応を機械的にひきおこすものだから、コドモはその呪文の威力をくり返したしかめては喜んだ。そして、その呪文の威力をつうじて、母親に力を行使できる自分をたのしんでいるふしがあった。
コドモは母親以外にも呪文の威力がためしたくて、出会う大人にのべつくまなしにチンチン! とやっては、母親のヒンシュクを買った。わたしはこのコドモのオバである。 このコドモが一二歳になった頃、チンポのケが生えてきた、と言う。この年齢までに、コドモはさすがに、チンポのケ、と叫んで大はしゃぎするほどのコドモらしさを失なっていた。わたしがチンポのケ! と叫ぶとコドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。コドモは性の情報をどこからか身につけてオトナの世界に行ってしまったのだろうか、とオバは遊び相手を失ったさびしさで、もう一度だけ、チンポのケ、とつぶやいてみる。
おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。こんな楽しみはたあいのないもので、相手が反応しなくなったら、おしまいである。動かなくなったおもちゃを捨てるように、わたしはおまんこというコトバをあっさり捨てるだろう。逆に言えば、周囲が眉をひそめつづける間は、おまんこと言いつづけるだろう…。
上野千鶴子「おまんこがいっぱい」『女遊び』所収 学陽書房1988
まず、彼女が「おまんこ」というコトバになんら卑猥なイメージが伴っていないということからはじまり、次に卑猥なイメージが形成されていないコドモを引き合いに出して、オトナに「チンチン」というコトバを投げつけ、母親ですらなんらかの威力を行使できることをコドモは楽しんでいるのではないかと推察する。
ところがコドモもいつのまにか成長してしまい、そのコトバのもつ卑猥なイメージを恥ずかしがるようになる。上野は同志を失いつつ、いまだにオトナたちの反応がおもしろくて人前で「おまんこ」と言う。
まとめれば、こんなところか。
もちろん彼女はフェミニストなので、淫語のいやらしさについて語ろうとしているわけではない。
ついでだからエッセイ全体を軽くまとめてみると、この書き出しを受けて「おまんこは誰のものか」という問いを設け
「おまんこを花と形容したのも男なら、ボロぎれと呼んだのも男だ。女にはどちらもわからない。というより女にはどちらも関係ない。おまんこは花でもボロでもない。おまんこはおまんこだ。しかし男たちがおまんこを、すみれ、ウニ、ひとで、二枚貝、傷口……と呼ぶのは、女たちを脅えさせ、混乱させる。おまんこを定義する力は、男たちが持っているからだ。
という話を展開する。
さらに、男は女の性器にファンタジーを見るが、女は男の体にファンタジーを求めているとは一概に言えないとする。その例としてフェミニズム・アートがなぜか男の体より、女の体、特に女性器にこだわっていることに着目する。
この本の表紙や本の挿絵にもなっているのだが、これを創っているジュディ・シカゴをはじめ、女のアーティストたちがおまんこアートにこだわり、造り続ける理由は、女のエロスの根底にナルシシズムがあるからではないかと考える。
そのオートエロティシズム(自己性愛)はまた同時に、女は必ずしも男の体を必要としているわけではないということを示唆する。
そして、おまんこを神秘化したり、汚らわしいものだと思ったりするのは男どもに任せて、女はおまんこをありのまま受け入れ、「おまんこを通して自分自身と世界を見ていこう」ということで話を結ぶ。
まぁ、この辺りは男である自分からすると微妙な疎外感を感じつつ「へぇー」とでも言っておくしかないわけだが、ここでは構造主義者でもある彼女の次の一節に注目しておきたい。
おまんこ、と唱えて相手の驚く顔が見たい、というわたしのこどもじみた欲求は、フーコーの言う<性の抑圧>仮説にぴったりだと、今さらのように感心する。フーコーは、禁止があるからこそ性の言説がはびこる。性の抑圧と性的ディスコースの特権視は、タテの両面だと喝破した。おまんこ! と叫んで他人のヒンシュクを買いたいわたしの不幸なビョーキも、この近代の射程の中にあることが、今じゃはっきりわかるよ、フーコーおじさん。
ここから言えそうなことは、それが「近代」社会において「抑圧された」禁忌の言葉だから、ということだろう。
さらに言えば、それは近代に入って起こる「性倒錯」の一種ということも、気にとめておいた方がいいかもしれない。
レズビアンやフェティシズム、SMに淫語が親和性をもつのは、その辺りに理由があるとも考えられる。
ただ、注意しないといけないのは、上野の淫語の面白がり方は、あくまで相手が戸惑う反応にとどまるということだ。淫語そのものを言わせて、それで興奮するわけではない。
実際、彼女自身「おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、私はおまんこと言いつづけるだろう」と言っている。
したがって彼女は、淫語を言うことが好きかもしれないが、淫語マニアが女の人の口から淫語を聞いて性的興奮を得るメカニズムとは違うと考えるべきだろう。
あえて言えば痴演系淫語に分類されなくもないのだが、これを淫語プレイの1つとして考えてしまうと少し混乱してしまいそうだ。
レズビアンの淫語責めに近い感覚ではあるんだろうけどね。
女遊び上野 千鶴子 (1988/06)
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ところで、この話はここで終わらない。
というのも、自分がこの「おまんこがいっぱい」についておもしろいと思うのは、淫語関連で言うなら、この「おまんこ文」そのものに対する世間の反応なのだ。
特に『文壇アイドル論』で上野を俎上に上げた、文芸評論家・斎藤美奈子の評価はとてもおもしろい。
だから次回は、斎藤美奈子の「おまんこがいっぱい」の反応について確認してみたい。
淫語に対する彼女の姿勢が、淫語に批判的なAVユーザーのそれと同根のような気がしてならないのだ。
同じエロビデオを見ているはずなのに、淫語に興奮する者もいれば、はげしく萎えるという者もいる。
一体、これはどうしてなんだろうね? フーコーおじさん。
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更新のペースをあげてみる。
- [2007/06/26 13:20]
なんかここ最近、淫語マニュアルのアクセス数が減っている。
理由は、サーバー障害のせいで一番アクセスが稼ぎ時の深夜に、ダウンしていたってこと。
これは間違いないことなんだけど、1つ気になっているのは、ここ最近、更新が週末の1回のみとなってしまっているってこと。
ちょっと平日のアクセスがひどすぎる感じがする。特に週明け。
更新に関しては、確かにプライベートでいろいろあって渋りがちではあるんだけど、最近このブログの方にばかり力が入っちゃってることも原因の1つだね。
やっぱり本サイトの方は、最低でも週2にはしておかないとダメだよなぁ。
ということで、昔の頃にもどって少々、作品的に問題があってもアップするようにします。
んで、レアルの新レーベル、痴女専門の「M」の作品を上げてみました。
続けて、あと2つぐらい、アップしてみるつもり。
このMだけど、どうやら痴女のとらえ方が先祖返りしてしまっているんだよね。
昔の「女ハ男ヲ目デ犯ス」とスタンスが近い。前に二村監督が言っていた「チンポを前にしたパフォーマンス」風の痴女になってしまっているのね。
痴女作品が売れなくなってきていると言われている中、どうなんだろうね、これ。
二村作品や雌女とかを見慣れてしまった自分から言わせると、なんか薄っぺらい感じがしてしまうんだなぁ。
これだと企画的にもすぐに行き詰まりそうだし、早晩こけそうな気がする。まぁ、煮詰め方しだいだとは思うけど。
女優さんのパフォーマンス的には昔よりもよくなっているしね。
問題は、こういうの好きな人はいるだろうけど、それを見てた人たちが、まだAVを見続けているかどうかってところかもしれない。
結構、微妙のような…。
上野千鶴子が好きだった。
- [2007/06/22 00:01]
うーんと、前回のレビューがあまりにも精魂こめて書いたもんだから、まだその火照りが残ってしまって、さすがに次の作品に取りかかれない。
でもいい加減これではまずいので、明日こそ七海菜々ちゃんの「雌女」のデータを作らなきゃと思うとります。
この七海さんの雌女は、七海さんの性格のいいところがよくでていてなかなかいいんだよね。
作品的には、まぁいろいろないわけでもないんだけど、でも七海菜々さんはいかにも「気立てのいいお嬢さん」って感じで、今回のオフショット映像を見てたら、なんか惚れそうになっちゃった。
インタビュアーがとっても羨ましい。
自分もインタビュアーになっていろいろ質問してぇーぞ!
質問するって結局さぁ。
何を聞くかということよりも、相手に質問をぶつけてどういう反応を引き出すかってことの方が大事なんだと思った。
ただ質問すりゃあいいってもんじゃない。興味のあることを聞いて情報を引き出すだけだったら、こどもでも出来るからねぇ。
ということで、土曜日に七海さんの雌女をアップします。
それとこのブログでは、代々忠の本の紹介をしつつ、「なぜ淫語はいやらしいのか」考察していこうと思ってたんだけど、「名前のない女たち」のレビューで、上野千鶴子のエッセイを引用していたら、どうしても上野千鶴子の話がしたくなったので、まず上野千鶴子の「おまんこ」エッセイを紹介することにする。
当時、あれだけ騒がれたエッセイだったのに、ネットで検索してみると、今では断片的な伝わり方しかされてないようだ。
それも淋しいなぁってことで次回は上野さんの「おまんこがいっぱい」というエッセイを。
88年当時の文章なのに「おまんこ」とか「チンポの毛」とか、そう言う単語がいっぱいでてきます。
自分は学生時代、間違いなくこの人のモノの見方に影響された。
で、今回、久しぶりに彼女の本を読んでいたら、なんだかんだいって、共感するところが多い。つまり彼女の感覚は結構、自分の中で血肉化して残っているようである。しかも淫語が好きだってところまで。
もちろん、この当時、まだ「淫語」という言葉はなかった。
代々忠がやっと「言葉プレイ」なんて言い方をしてたぐらい。
そんなこんなで、ここしばらくは本の紹介だね、この「ボヤキの小窓」は。
しかも古本ばかり。
本当は松嶋侑里さんか三咲まおさんの癒らしもやるつもりではいたんだけど、どうなるかわからない。
やっぱりここは淫語考察がメインだからさ。
淫語の数を数えてなんぼのサイトなのよ。
淫語の呪縛にかかった男の検証サイトでもあるのよ。
「名前のない女たち」AVレビュー
- [2007/06/19 23:56]
AVopenチャレンジステージ「名前のない女たち」は、大阪の下町・十三から始まる。
1.中村淳彦が真咲ぴぃ子との待ち合わせ時間より早く着いてしまう。
2.ぴぃ子のいるデリヘルに 名乗らず潜入。
3.待ち合わせ場所に行き、ぴぃ子とあらためて挨拶。インタビューの開始。「欲されたい」
4.時間は少し進んで、AV女優として東京に出てきてしまうぴぃ子。
5.ゴールドマンとの言葉責めハメ撮り本番 顔射
6.時間は遡り 3の続き 「欲されたい」のはどうしてか。彼女の生い立ちが語られる。
7.大阪のぴぃ子の部屋 ハメ撮り 腹射
8.翌日、昼に妹が部屋に遊びに来る。2人で家族のことを語る。
ここまでが大賀麻郎登場前のあらすじ。
表4にある「摂食障害・リスカット・DV・家庭崩壊・SEX依存・軽うつ症」など、ぴぃ子の身の上話が赤裸々に語られていく。
話の中身はともかく、中村淳彦の「普通感覚」からの驚きや意識のズレが、さらに彼女の内面をうまく引き出していく。
中村が「どうして自傷行為をするのか」聞くと、彼女は「欲されたい、欲されたかった。淋しかった」と言う。
この「欲されたい」という言葉が前半埋め尽くされる。
「初体験が小六なんです。
どんな形であれ、欲されることを知って。
求められることを知って、求められることを欲するようになった」
「誰といても、なんか満たされてる感がなくてぇ、いつか要らなくなっちゃう違うんかなぁ、と今でも思う。どんだけ好きって言ってくれてもぉ、何回、そんなアツい気持ち、男女を問わず、手紙もらっても、ハイヒールはいても、満足はなかった。女になろうとした次は。大人じゃなくて、人にぃ、欲される女ぁ? 男ぁ、欲しがる女、あきひん女…」
東京に来てとうとうAV女優になってしまったぴぃ子に、中村は次のような質問をぶつける。
- 中村
- 欲され具合が足りないってこと?
- ぴぃ
- ウン。
- 中村
- 欲され具合が足りないっていうのはどういうこと?
- ぴぃ
- なんか、存在意義を探してる、ずっと、多分。
- 中村
- いや何で、自分1人だと、何で、存在意義ってわかんないもんなの?
- ぴぃ
- わからない。
- 中村
- えっえええーー。
- ぴぃ
- でも………、わかんない。わからへん。何のためもあるし、どこにいったらいいんかわからへんし。もちろん、汚い…くはないかなぁ。お金も欲しかったりするし。お金、欲しいし。でもなんか、欲されたい、とにかく。
そして、いよいよカリスマ竿師・太賀麻郎の登場。
10.再び東京 太賀麻郎と顔合わせ
11.買い物 車の中でアイスを食べいろいろ話しかける太賀
12.ベッド 太賀との本番 しかし激しく拒否をするぴぃ子
最初の顔合わせの時から、2人の波長はあっていないように見えた。
決定的なのは次のやりとりから。
- ぴぃ
- エッチて結構、勝負事じゃないですか。
- 太賀
- ん?勝負事。
- ぴぃ
- 勝負じゃないですか?
- 太賀
- 勝負なの?
- ぴぃ
- SEXって。
- 太賀
- 勝負って、なんの勝負?
- ぴぃ
- なんか、けっこう、なん、なんて言ったらわからへんけど、なんか勝負みたいな感じがする。
- 太賀
- ま、負けぇ? だって、勝ち負けがあるってことでしょ、勝負って。
- ぴぃ
- そう、やし、エッチをしたところで、どんだけ好きな人とでも、好きじゃない人とでも、しても絶対につながることなんてないもん。
- 太賀
- えっ、つながんないの?
- ぴぃ
- うん。
- 太賀
- じゃBまでだ。
- ぴぃ
- だから虚しーくなる。
- 太賀
- えっなんでつながんないの? だって、つなが、ポコチン入れてるんでしょう? それって さぁ。
- ぴぃ
- ただの凸と凹で融合はしない。
- 太賀
- ああ、なるほどね、それじゃダメだね。
- 中村
- つながり持ちたいと思わないの?
- ぴぃ
- 相手とですか?
- 太賀
- うん。つながりって要するに、そのSEXしている間だけでもだよ。あのぉ、融合したら本人だよ。相手とも自分も本人ってことになる。
- ぴぃ
- でも融合することなんてないんやもん。
- 太賀
- なんでないのぉ?
- ぴぃ
- そーあたしが感じないからぁ。
- 太賀
- はぁ…。融合してみたらいいんだょ。ったらまったく、…あのぅ、別もんだから。そういうオナニーとかそういう快楽のみっていうのと。
- ぴぃ
- でも、自分が「この人」と思う人もいないし、別に好きでもない人と、融合とか、したいと思わんけど。
- 太賀
- でも、はじめからあきらめてるのと、そういうことがあるかもしれないって思っているのと随分違うよね。
- ぴぃ
- でも、そんなん、なんやろ、アタ、数を打ったら、アタるやろうけど、そこまでしたいとは思わないし、興味がないし、面倒くさい。
このあとカリスマからいろいろ近寄ってはいくのだが、どこかうわの空のぴぃ子。このままうまくいくとはなかなか思えない展開。
「人には神聖な部分が絶対にあって、それが、それをさらけだすのが仕事であろうが、それで私が明日、自殺してしまったら、中村さん、どうする?
どうすんの、ほんまに?」
人には誰にも入ってはならない神聖な領域がある。
それを「人権」だとか、「人格の尊重」だとか、「パーソナルスペース」だとかいろいろいうが、とにかくそこは神聖にして犯さざるべき禁断の領域なのだ。
古来、その神聖な場所に入れるのは、「神」か「仏」か「悪鬼・魔民」のようなものだけなのだろう。そこは当人ですら特殊な意匠を身にまとわなければ入っていくことができない。
ぴぃ子が頻繁に化粧をしまくるのはそういうことなのかもしれない。
だからもしその聖域を、他人に土足で踏み込まれようものならとても生きてはいけない。世俗の言葉で穢されたら人は死ななくてはならない。
真咲ぴぃ子のあの言葉はそういう追いつめられた人の言葉だった。
あれは祈りの言葉だろうか? それとも呪いの言葉か。
おそらく当人もよくわかっていないだろう。
とにかく凄いドラマだ。
ただ、なぜこのような事態になったのか。
カリスマもよくわかっていないんじゃないだろうか。
自分はこれを見て、学生の頃読んだあるエッセイを思い出した。
上野千鶴子の「京都の街にガイジンとして暮らす」の中にある次の一節だ。
関西人はコトバを信じない。相手の言うことに、ひとしきりじっと聞き入ったあとで、こう反応する――「で、どないですねん」。言われた方は、困惑してアゼンとする。たったいま、全部言ったところでしょう。えっ、聞きました、で、どないですねん。東京人は、ここで呆然として、匙を投げる。関西人には、ニホンゴが通じない。――私は、そう言って嘆く東京モンを、たくさん知っている。そこには、タテマエはタテマエとして聞いた上で、コトバを額面通りには信じない、二重底のしたたかさがある。この態度は、タテマエをくずして、ホンネで生きよう、というナイーブさとも違う。関西人は、タテマエを信じないのと同じくらい、ホンネをも信じない。関西人が信じているのは、タテマエとホンネのずれだけである。
上野千鶴子『女遊び』所収 1988 学陽書房
これと同じことがこの作品でも展開されていた。
- 太賀
- 日記にも書いてあったけど、逃げてるって。でも、逃げ回ってても、いつまでたたって、ゴールできないもんね。スタートラインについてないから。
- ぴぃ
- 何がスタートなんですかぁ? じゃ、スタートがあるんやったら、ゴールも絶対あるはず。
- 太賀
- そうだよ、そうだよ。まず、スタートラインにつけば、ゴールは、いずれはするんだ、絶対。
- ぴぃ
- なんで、どこ、どっかに、何で向かわなあかんの?
- 太賀
- いや、別にいかなくたっていいってことよ。
- ぴぃ
- じゃあ、いいんじゃない。
- 太賀
- ん、だけど、あなたが生きてて、行動しているわけじゃない。そうでしょ、ビデオに出るんだって、自分自身はあったわけでしょう。でも、何かをするってことは、かならずそういうことが生じるんだよね。廻りの人もそれでうごくわけでしょ。
- ぴぃ
- うん。
- 太賀
- したらさ、それなりに責任が生じるわけだよ。俺、責任、大嫌いだけどね。ホントは、ぴぃ子ちゃんはわかってるんだと思う…。
- ぴぃ
- わからん! 言ってることはわかるけど、わからん。
- 太賀
- うん、うん。
- ぴぃ
- 「だから何?」ってなっちゃう。
- 太賀
- いや、「だから何」なんだよ。
- ぴぃ
- 「だから何?」って…
- 太賀
- 「人生って何?」ってさぁ、俺は思うけどさぁ、そんなのわかんないよね。それね今と向き合ってないからだって。
- ぴぃ
- 何で向き合わなあかんの?
- 太賀
- 先に進んでるから。人間、死ぬまで生きないといけないから。
- ぴぃ
- 別に向き合わんでも、先には進むしぃ…
- 太賀
- 進まない!
- ぴぃ
- すすむ…
- 太賀
- 日にちは、日にちは経ってくしぃ、体も年取ってくよ。でも中身は何も変わってないと思うよ。それは気づいたときにスタートラインについてないからだと思う!
- ぴぃ
- でも、変わりたいと願ってない…
- 太賀
- かわら、んいいとも思うよ。変わらなくてもいいと思う。いつまでもそのままでいいと思うよ。ピーターパンみたいにね、子どもで、ずっと、いた、いたいと思う、俺も。
めずらしく太賀が女のコに声を荒げるシーンがある。
相当、イライラしてたんだろうね。
最後の方は皮肉まじりの言葉を言ってるし。
問題はなぜ、あのカリスマのいつもの理屈がぴぃ子には通じなかったのか。
自分は東京モンのノリで大阪娘と接してしまったからじゃないかと思った。
上野千鶴子は、アメリカでのコミュニケーションセミナーの話を引いて、こうまとめる。
そのプログラムの中で、心理学者が受講生にアドバイスするのは、こういうことだ――コトバはウソをつく。カラダはウソをつかない。だから人間関係をうまくやりたいと思ったら、結局カラダの方にコトバを、つまりホンネの方にタテマエを合わせて、率直にわかり合えるように努力しなさい。
この「コトバはウソをつく。カラダはウソをつかない」というフレーズ、以前、このブログにも同じようなことをコメントしてくれた人がいた。
自分も、この理屈は全く正しいと思う。
少なくても東京では。
でも大阪・十三育ちの真咲ぴぃ子に、これは通じなかったんじゃないだろうか。
上野千鶴子はさらにこう続ける。
私はそれを聞きながら、関西人ならこういう時、どういうアドバイスをするだろうか、と考えていた。タテマエとホンネにずれがあって当たりまえ、だとしたら、そのずれを埋めなさいという助言は、いかにもアメリカ人的な単純率直さに思われる。関西人なら、ずれはずれのままで置いといて、そのずれを自覚し、操作しなさい、というのではないだろうか。
最後に、真咲ぴぃ子は太賀とのものすごいいやらしいエッチを展開する。
「死ぬ」とまで言って拒絶した真咲ぴぃ子が、なぜ急に態度をあらため本番をすることができたのか。
その理由は、まさにこの「タテマエとホンネにずれがあって当たりまえ」ということを、彼女なりに受け入れることができたからではないか。
彼女はナカムラさんを呪い、自分を呪ったと同時に、自分自身を言祝いで、新たな自分を受け入れたのではないだろうか。
関西の女は強いのである。
表現があって初めて本当の理解がある。
- [2007/06/18 23:47]
「名前のない女たち」のレビューを書こうと思って、参考のためにネットを巡回しているんだけど、あんまりレビューらしいレビューは見つからないね。
とりあえず、これ↓ぐらいかなぁ。
腐敗したメーカーに鉄槌をいれる!セル店店員の妄想批評ブログ
2007AVオープン チャレンジステージ(4)
「腐敗したメーカー」っていうのはどこを指してんだかわからないけど、なかなか刺激的なブログタイトルだよね。大丈夫なんだろうか?
まっ、これもねぇ、ちょっと食い足りなくて、雑誌とかも含めて、いろいろ見ていたんだけどさ、あんまりピンとくるものがないのよねぇ。なんだろうね、これ。
まぁ、もともとAV情報誌に、自分の知りたい情報がないってことで「淫語AVマニュアル」を作った経緯があるわけなんで、わかっていたことではあるんだけど、それにしてもねぇ。
そもそも、AV情報誌の簡単なレビューって、なんのためにあるのかねぇ。
自分のようなマニアックな性癖を持っている人間はしょうがないとしても、一般ユーザーはあのレビューを参考にAVを買おうとするもんなんだろうか。
紙媒体の雑誌よりは、個人のレビューサイトの方が、まだまともなことを書いているような気がするんだけどなぁ。
しかも雑誌はどうしてもタイムラグがあるから、発売されて1ヶ月以上経っている作品を紹介していたりする。
何の意味があるんだろう、ホント。
自分の一体、どこに盲点があるんでしょうか?
誰か教えていただけませんかね、いやマジで。
まぁ、いいや。
んで、「名前のない女たち」なんだけど、これ見る度にいろんなことを考えちゃう。
たとえばゴールドマンなんだけど、正直、最初見たとき、今回のゴールドマンにはものすごく腹がたったんだよね。
いかにも「お仕事SEXしてます」って思えちゃってさ。
なんか真咲ぴぃ子と正面からぶつからずに無難にまとめたって感じがして、仕方がなかったんだよなぁ。
「つまんなくなったな、ゴールドマン」って、思わず、画面に毒づいちゃった。
自称・詩人のゴールドマンは、AVのお仕事を片手間にやってから、こんな無様な醜態をさらしてんじゃないの、って思っちまった。
でもね。
そういえば、中村さんのブログにこの辺りのいきさつが書いてあったことを思いだして、早速、掘り起こしてみたらさぁ。
ぴぃ子は小6でキャバ嬢になるまで、給食のパンを父親とわけて食べるなどの極貧の生活を送っていたらしかった。セックスしながら「貧乏人」であること、また過剰な化粧の揚げ足をとって「素顔では表を歩けない」ことを罵って欲しいと依頼をした。
歌舞伎町のラブホから帰ってきたゴールドマンは、浮かない顔をしていた。自意識の強い彼女がゴールドマンのファンタジックな世界にハマるとは到底思ってなかったが、やはり本来の自分からズレた人格を演じることは無理だったようである。セックスは激しくそれなりにエロかったが、ぴぃ子は自らの快楽以外に興味をしめすことはなく、想像通りのすれ違ったセックスが展開されていた。
発射後。ゴールドマンは「リストカットの詩~オマエは淋しいんぼう」を歌ったのだが冷たくおそろしく寒かった。
なるほどねと思った。
結局さ。
このあと出てくるカリスマ竿師も含めて、ここに登場するおっちゃんたちはみんな、まだ十代のこの娘に振り回されてしまっているのね。
最後のエッチだって、カリスマの力業でエロいエッチになってはいるんだけど、あれもある意味、「真咲ぴぃ子」が大人になってくれて、なんとか折り合いをつけようとしてくれたから成立したようなもので、さすがの太賀麻郎もちょっとヘンだった。
麻郎さんは認めないかもしれないけど、小娘相手にかなりムキになってるように自分には見えたしね。
真咲ぴぃ子はなかなかどうして、いっぱしの哲学者ですよ。
この作品の登場人物の中で、一番、真剣に自分と向き合っていたのは彼女なんじゃないの。
イイ娘だよね、彼女。
ま、ほかにもいろいろとね、見れば見るほど考えることが出てきちゃう。
次から次へと重要なポイントが立ち現れてきて、収集がつかなくなっちゃうんだよね。
つまり、それだけ良い作品だということ。
ヌキにしても、全然、期待してなかったんだけど、麻郎さんとのエッチはさすがにゴニョゴニョしてしまった。
麻郎さんって淫語の言わせ方もうまいんだね。
それと中野貴雄さんってぴぃ子と同じ、大阪・十三の出身だよね。
編集の時、何か感慨みたいなものはあったのかなぁ。
書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく。
読む人間から書く人間へ変わるというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えた時、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書 1959
批評するってホント、大変な仕事だなぁ、って最近つくづく思う。
特に、この作品はずっと緊張しまくりですよ。
こんなに真剣にAVを見たのは初めてじゃないかなぁ。
きりがないのでいい加減、見切りをつけて、明日の晩にはレビューをアップするね。
あとがつかえているし、淫語マニュアルもいい加減、週2回のデータ更新を遂行したいし。
んで、中村淳彦さん。
コレ、宣伝すると「中村敦彦(ママ)グッズ」(「ぴぃ助ψ(`▽´)ψの【性技の味方】」より)が手にはいるってホントですか?
そういえば雨宮さんにも、春うららのとき、ブログで「敦」彦って間違えられて書かれてたよなぁ、確か。
深大寺は沙悟浄を祀っているともいえなくもないよね。
- [2007/06/16 11:16]
今日は、久しぶりに何もない1日。
しかも東京は朝から晴れて、さわやかな初夏の風が吹いている。
「こんな日にAV見たり、懸案のHPをいじったり、プログラミングとかの勉強をしている場合じゃないよなぁ」ということで、今からどっか、でかけてくる。
とりあえず、蕎麦でも食いに行くかぁ。
バラ園のバラもいいなぁ。
ところで、今朝、二村監督の日記を覗いたら、
最近、よくTOHJIROと話すのは、
今のAVが(我々が作ってるものも含めて)
『ウルトラファイト』になっちゃってるね、ということ。でも、本当はモロボシダンがセブンに変身する前があるから、
そこをちゃんと作ってるからこそ、
変身して以降のファイトが面白いんじゃないか、と。いや、ウルトラファイトそのものは面白いんですが。
ウルトラファイトとは何か→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ウルトラファイト
「二村ヒトシ監督×DIARY」06/13/2007
ウン、確かにウルトラセブンは面白かった。
だけど、キリヤマ隊長みたいに海底人の都市を見つけた途端、知的生命体間交渉もなにもせず、1機関の現場責任者の判断で、スペースノイド大虐殺するようなシナリオはやめてね。
高千穂遥みたいなのをエロで作られても困るし。
…ウルトラファイトかぁ。
あの時間帯の帯番組で連想しちゃったんだけど、なんかトリプルファイターが無性に見たくなっちゃったなぁ。
どっかに映像、ないかなぁ。
淫語を体系化するのだ。
- [2007/06/14 22:38]
ようやく、変態幼稚園の淫語データを採り終えた。
あとはこれから総評を書いてタグ打ちして、いつものように明日の更新に備えるつもり。
しかし幼稚園の先生があんな風に「でちゅかぁ~、でちゅねぇ」なんていわねぇーよなぁ。
まっ、いいか。
ところでここ最近、「ボヤキの小窓」の訪問数がいきなり増えた。
前にも書いたけど、淫語AVマニュアルの方は相互リンクやYahoo!のカテ登録のおかげもあってユニーク1500~2500/日ぐらいの訪問者がある。
最近は土日になると3000を超えたりする、まあまあ中堅サイトってところなんだけど、このblogは相互リンクを頼んだこともないし、検索サイトにも登録していないので大したことはない。1年やってようやく150/日ぐらいの訪問数。
ところがここ数日、急に300~500ほどになった。
来ているのは、1月に書いた「淫語連呼のリズム」っていう記事。
このかなりマニアックな考察に、今頃になって食い付いた人がいるらしい。
そしてあるところにリンクが貼られた。
多分、そこを経由して来てくれている人は、エロゲ愛好者じゃないかと思っているんだけど、半年前の記事を掘り起こしてリンクしてもらうなんて、ちょっと予想外だった。
blogやってるとこういうこともあるんだねぇ。
もともとこのblogの裏テーマは「なぜ自分は淫語にこだわるのか」ということ。
真面目に「淫語」について掘り下げ、体系的に分類してみようと企んでいたりもする。
だから、せっかく来てくれているのに、肝心の「淫語考察」がおろそかになっては申し訳ないので、そろそろまた何か書かなきゃって思っている。
ネタ的には、淫語マニュアルのBBSを覗いている人は察しがつくと思うけど、「淫語」以前、まだ「卑猥語・痴語・四文字」といわれていた頃に出版された、ある巨匠の本を紹介して、さらに「淫語」のいやらしさについて言及していこうと思う。
ただその前にあけぼの映像の「名前のない女たち」のレビューを書かないとね。
実はこの作品、3月の末、中村さんにちょい長めのPVを見せてもらったんだけど、そのときそのPVを見て、ものすごい鳥肌がたったんだ。
すぐ中村さんに
不思議なんですけど、彼女が映し出された瞬間、あの言葉を発する前から背筋がゾワっーときて、身震いしました。
真咲ぴぃ子さん、両手を顔の前に合わせ、唇を人差し指につけるようにしてうつむきながら独白。
「それで、あした、ワタシが自殺してしまったら、ナカムラさん、どーする?」
ああやって手を合わせてうつむき加減で何かを言う時って、こころの奥底に沈めてあった感情を、言葉にして引っ張り出すときの仕種だと思うんです。
だからだろうな、彼女が発言する前から画だけ見て戦慄が走っちゃったのは。追いつめられた人間が、祈るように捻り出した心の言葉。 中村さんを呪ったのか、自分を呪ったのかわかりませんけど、ああいう孤独感いっぱいの叫びは胸にズシリときて、自分の立ち位置をグラつかせますよね。
なんてことを書いて送った。
もちろん、その時は作品全部を見ることができなかったわけで、3分ぐらいの極めて断片的な画から受けた印象でしかなかったんだけど、何度見てもあのPVを見ると戦慄が走るんだ。
だから早く本編が見たくてしょうがなかった。
そして、見た。
間違ってなかった。
最後に強烈な人間ドラマが用意されていた。
やはりあの時、自分は彼女の祈りに感応してしまったんだ。
それまでの成り行きもあるんだけど、でも掛け値なしでね、これ、多くの人に見てもらって、ああでもないこうでもないって言っている話を聞いてみたい。
そうそう、それとすっかり書き忘れていたんだけど、渡辺琢斗監督からメールをもらいました。
そんで残念なんだけど、やはり淫語中出しソープはもう作られないとのこと。
売れ行きがどうとかってことではなく、路線変更にともないZONEというメーカー自体が渡辺監督を使わないってことらしい。
でもね、AVSでなんとか引き継いでいきたいって。
いい人だぁ。
近々、また監督の作品をアップするかなぁ。
癒らし。 大人の恋愛Special版 レビュー
- [2007/06/13 22:50]
「癒らし。」には2つのシリーズがある。
1つは、もともと先行して作られていた「遠距離恋愛」。
ここで何度か紹介してきたけど、比較的若い企画女優を使うことが多いこのシリーズは「普段、すれ違いの続いている恋人たちが、久しぶりの逢瀬で愛を確認してまた別れる」というのがコンセプトになる。
「屋外デート」なんかがその設定に彩りを添えている。
街角にいる恋人たちは、それだけで十分、エロいということがこの作品の売りである。
そして、もう一つがこの「大人の恋愛」。
タイトル通り、少し人目を憚るような訳ありの恋愛をテーマにしている。
大抵は不倫設定になっていて、「いずれ別れることが前提の、忍ぶ一瞬の逢瀬」がテーマになる。内容が内容なだけに最初から何か切なさがつきまとう。
女優さんも熟女ものに出ている人がほとんど。演技も比較的うまい人が多い。
だいたい密会デートなので野外でのシーンは少なく、ほぼ室内でのやりとりが続く。
不倫を匂わす性質上、ある程度、視聴者になぜこのふたりが出逢い、愛し合うようになるのかという説明が試みられることになる。
つまり、「遠距離恋愛」シリーズと「大人の恋愛」シリーズはまるきり別物と考えていい。
自分は最初、この2つを混同して買ってしまっていた。
なので、新規のユーザーのことを考えたら、「大人の恋愛」の方のタイトルを大きくして、「癒らし。」という文字を小さくするべきなんじゃないかと思っていたりする。
間違って買うと、「なんだこれ!」ってなりかねない。
実際、アウダの固定ファンの中には、どちらか一方だけを好きという人もいるみたいだ。
さて、その「大人の恋愛」だが、ストーリーはいつも南★波王監督と女優との面接の中で決まっていく。
女優さんとの恋愛経験を聞いて、インスパイアされた監督がシナリオを書く。
AVに出演して人気の出るような女優さんたちなら、切ない恋愛話の一つや二つぐらいあるもんなんだろう。
それを巧みに織り込んでいく手法は、なかなかのセンスがないと書けないと思う。
実際、演じる女優さんたちは、毎回、気持ちが入り込みすぎてしまって、マジ泣きのSEXをしてくれたりする。
このシリーズ、それなりのクオリティーをたもっていて、自分は、ほぼ完成型に近づいているものだとばかり思っていた。
主観ドラマの可能性まで見えたような気がした。
だから、今回のAV openの出来には正直がっかりした。
1.暗がりでの姫野愛と夫の本番。
2.友田は職場、姫野は主婦としての日常シーン。タイトル。
3.友田真希が難病を告知される。思い悩む友田。
4.姫野とのお風呂でのイチャイチャ フェラ抜き。
5.友田が電話をかけ、会う。入院する話をする。
6.暗がりの姫野とのフェラ。
7.友田を見舞う。友田、自分は長くないことをほのめかす。
8.姫野が夫の行動に気づき、友田に会いに行く。
9.友田と残された時間を過ごすため、愛の逃避行。
10.出張と偽り、家に荷物を取りに行く。そのまま姫野を押し倒しエッチ。
11.ホテルで友田とエッチ。
12友田との生活シーン 友田とエッチ。
13.またエッチ。
14.朝、起きてみると友田、死んでる。友田の手紙。
15.夫が妻のもとに戻る。泣きながら迎える姫野。
こうやって書きだすとよくわかるが、とにかく構成が酷い。
バランスも悪い上、余計な話が多すぎる。
しかもカラミ以外の演出は、チョーど下手。
とても鑑賞に堪えうるものではない。
たとえば真希さんが「私、もう助からないかもしれないの」ってさりげなくつぶやく。
それを聞いた男が動揺して囓りかけのリンゴを思わず落としてしまう。
コレを見て
「そうか、こういうとき、男はこんな風に慌てちまうんだ…」
なんて思うだろうか?
これこそ猿芝居だ!
こんな感じで演技過剰の芝居が続き、シリアスな話なのに感情移入ができず、そのせいでカラミも嘘くさく見えてしまう。
自分は、この作品を見て確信した。
これ、カラミだけ抜き出してみると、今までのシリーズの中で実は一番よかったりするのだ。
芸達者な女優さんたちの反応もさることながら、なにより撮り方がいつもより丁寧できめ細やか。主観男優の手の動きもこれなら及第点だなぁと思った。
えっ もうー
お風呂 あがってからね
…もう しょうがないなぁ
おっきい手
だーい好きだった
今もきっと…
アナタのこの手も 声も 私を見てくれる目も 全部好き
で、あらためて思った。
どんなにカラミが良くできていても、それをつなげる部分がお寒いものだと、作品として駄作になっちゃって、ひいてはカラミそのものもおかしく感じちゃうんだ。
結局、どんな風にカラミに入るかってとても重要なファクターなんだ。
この作品は、とにかくいろんな意味で全体的にしゃべりすぎ、表現させすぎ。
時間が190分、3時間10分もあるんだけど、そんなにはいらない。
まず構成だけど、自分なら「4に本番も入れて→5→7→10→12→13→15で友田の手紙を姫野から渡させて→8に戻り、終わり」でいいと思う。
それと男の独白テロップがかなりウザイ。
はっきり言って、これは監督の逃げだとすら思った。
今までは気にならなかったけど、この監督は、女心がわかっても、男心がわかっていないのかもしれない。
今後はテロップを使わずに、映像だけで勝負できるように苦労してもらった方がいいんじゃないだろうか。
結局、尺を長くしたら、作品の傷が思いっきり見えてしまったてことか。
でもさぁ、これをお読みの皆々様。
通常シリーズはこれよりも、もっと面白いんだよね。
南★波王監督にはさぁ、小説で言うなら、ハメットみたいなハードボイルドタッチの表現法を会得してほしいです。
不安だからくどいほど饒舌な表現をしてしまうのかな。
ユーザーはバカじゃない。
少々、言葉が足りなくても流れさえしっかりしていれば伝わるものだ。
むしろ、ユーザーの感受性を信じてほしいな。
つーか、友田さんや姫野さんに申し訳ないでしょ、これじゃ。
自分としては、ちょっと個人的な思いもあってさ、リメイクしてもらいたいぐらいだ。
ということで、このAV openで、「癒らし。 ~大人の恋愛~」を判断されたらとっても困る。
このシリーズが本来、どういう趣向のものか知りたい人は、南原香織さんの癒らし。 ~大人の恋愛~あたりをお薦めする。
友田さんのや風間さんのでもいい。
そんで、これはなかったことにしよう。
そうしよう。
AVにおけるドラマの可能性
- [2007/06/10 23:58]
杉崎夏希さんは、物怖じせずとてもイイ感じで淫語をいってくれるコで、作品を出す度に期待して見てるんだけど、今回のDC38は歩原らいとよりも今ひとつ弾け切れてなかった。
杉崎夏希さんがあまりにも素直すぎて逆に個性が引き出されていなかった感じがした。
淫語量は今までで一番、多かったんだけどね。
で、今日はAVのドラマ部分って何? って話をしたいんだけど、まずはこのDC38ね。
このDCシリーズなんだけど、作品のコーナーの中にベタなストーリードラマパートがあるのね。
んで、これがとにかくものすごくヒドい。
よくFLAG監督が使う桜木駿クンを使っているんだけど、彼はもともと演技勘のある人で、そんなに下手な方じゃないはずなんだけど、演出がひどいんだろうな。
大映テレビをさらに悪くしたようなノリなわけ。
なんでこんな猿芝居を金払って見させられなきゃならないんだろうと、コレがネライでやっているにしてもさぁ、あまりにもヒドいからはげしく萎えちゃったのよ。
芝居を舐めてんのかね、この監督は。
ちゃんとした演出ができないなら、やらなきゃいいのに。
次にマドンナのこれね。五十川みどりさんの「母さんとしたい!」
熟女ものって、特に「近親相姦」なんかがそうなんだけど、シチュの性格上、ドラマにしているのが多いよね。
自分はよくこのblogで主観作品について話題にすることが多いけど、芳賀栄太郎の「客観」の撮り方は昔から好きなのね。
この監督、牧原れい子さんが好きだっていうことらしいから、ひょっとしたら自分と女性に魅力を感じるツボが同じだったりするのかもしれない。
まず、客観で撮っているんだから、絶対にカメラ目線をいれない。
ベロチューやフェラ、乳首舐めシーンなどで、女体パーツの限界どアップを入れてくれる。
カラミの時に、女優さんの体全体を見切らずにいれてくれることが多い。
お尻から足の爪先のラインを大事にしているようで、女性が感じるときにクイクイって足の指が曲がるところなんかも撮ってくれる。
それと、量の多寡はあるけど必ず1回以上は淫語を言わせる。
この人の乱交ものは寄りがキツすぎて、どうなの? って思うこともあるけど、1対1の撮り方なら見入ってしまうことが多い。
そんなお気に入りの監督ではあるんだけど、この人のシナリオはいただけない。
あまりにもご都合主義。真剣に見ているとバカらしくなってくる。
この作品でも、母1人子1人の家庭で、家計が苦しくて、息子の大学の授業料が払えずに体を担保に金を工面するって話が出てくるんだけど、苦学生だった自分からすれば、なんでこの息子は働かないんだよって思っちまうんだね。
その気になりゃ、授業料ぐらいなんとかなるだろう。
「まず学生課か市役所か、そういうところに行って相談してこい」ってどうしても思っちゃう。
そうなると、萎えてくんだよね。
なんでこのシナリオのクオリティーで妥協できるんだろう。
これってやはりAVだから許されるって意識が働いているのかなぁ。
つまりAVのドラマなんて男優も女優も演技の勉強なんてしてないから、とにかく話のスジさえあればいいって感じで書いているってことなわけでしょう。
カラミ以外はどうでもいいってことを、AV制作者の方が自ら認めているってことにもなるんじゃない?
これはどうやら自分も好きだったあの、天才監督でも同じことが言えるみたいだ。
この「妹たちに犯されたい…。」っていうのは、二村ヒトシの代表作ってことになっているらしい。
確かに、二村流のシチュに、カラミもエロく作られている。
だからこそ、こうして売らずに持っていたりするんだけど、二村ヒトシってセリフのつけ方にこだわりが感じられないんだよね。
いや、多分、これってどの監督でもそうなのかもしれないんだけど、でもこの舞台出身の天才監督をしても、このヌルさで妥協できるってことは、つまり最初からドラマなんてAVは期待していないってことなんだろう。
たとえば、紗月結花 が「妹の処女のおまんこ、あなたにあげるわ」っていうシーンがある。
カラミとカラミの間に入る淫語セリフって、とっても重要だと思うんだけど、なんの演出的なアドバイスもせずに野放し状態になってしまっている。
なんで棒読みさせたままなのだろう?
ちっともイヤらしく聞こえない。
というより、セリフが死んでいる。
二村ヒトシですらAVというのは「エロい設定」と「エロいカラミ」だけあれば十分で、ドラマを演じることそのものはどうでもいいってこと?
ホントのところはどうなんだろうね。
もしもそうだとすればだよ。
秋秀人がS1で撮っている撮り方は間違っていないってことでもあるはずだ。
だってくだらないドラマ部分は本来、どうでもいいところなんだから。
猿芝居を見させられるぐらいなら、S1のようにキレイなねーちゃんを型どおりのエロ設定で撮ってくれた方が萎えずにすむし、ヌキの効率もいいはず。
正直、自分からするとドグマもS1も同じなんだよね。
昔はね、これでも二村ヒトシにはもう少し期待していたんだけど、今はもうやめちゃった。
よっぽど好きな女優で、好きな設定で作られていたら買うかなぁ~っ程度のメーカーになっちゃった。
もともとドグマは、二村ヒトシしか興味のないメーカーだったし。
結局、今、セルAVを見ているユーザーも「カラミ」のところにしか興味がないわけなんでしょう。
そりゃそうだわ、今までまともなAVドラマなんて見たことないからね。
それじゃー、そんなところからエロのアプローチを楽しみにしようとするユーザーなんて育ってくるはずがない。
AV女優の個性とかって、結局ドキュメンタリータッチの部分、すなわち、マジイキだとか、素に近いとか、そんなところの「画」でしか評価されないわけなんでしょ。
あとは、「こんなかわいいコが、こんなエロい格好してくれてる」的なノリでじゅーぶんなんじゃないの。
大抵のAV作家にドラマを作る力なんてないんだから。
でも、自分はドラマっぽいのが見たいんだよね。
ドラマじゃなくちゃ見ることのできない真実ってものがあると思っているわけ。
それは、有史以来、人間が演劇を楽しんできたように、きわめて自然な欲求だと思うんだけど、それに十分耐えうる作り込んだエロドラマをなかなか見ることができない。
なにげない人間の、ドラマ性のあるエロいカラミのAVが見たい。
ポルノ映画じゃなくて、カラミもちゃんとしたAVで。
それって欲張りなんだろうか?
だから、自分は主観ものに走っているのかもしれない。
主観なら、あのド下手な男優の演技も、発声のなっていないだらけきった声も聴かずにすむのだから。
もしも、AV男優に福山雅治とか中尾彬みたいな声の持ち主がいたら、全然、違うかもしれないんだけど、今のAV男優にそれを求めるのは無理な話でしょ。
シナリオも主観もののシナリオなら、シンプルにならざる得ないからうんざりするリスクが減る。
問題はAV女優さんの演技だけってことになる。
そういう中で見た、「癒らし。」
「大人の恋愛」は南原香織さんが最初だったけど、ものすごく期待させるものがあったんだよね。
「これ、結構、面白いんじゃないの?」って思ったんだ。
友田真希さん、風間ゆみさんの「大人の恋愛」もよかったね。
この撮り方ならAVでエロドラマを楽しむことは可能なんじゃないかって思った。
だから、AVopenの出品作は期待したんだけど、またぞろ見たくない猿芝居を見させられた感じがして残念だったんだ。
2人の女優さんはとても頑張っていただけに、もったいなかった。
なんで、普段通りの撮り方で撮らなかったのかねぇ。
ホント、ため息が出ちゃうよ。
まぁ、案外、創り手って、自分たちの創っているものがどういいのか、わかってなかったりするものなのかもしれないね。
それでヘンなマイナーチェンジをして人気シリーズをおかしくしていったメーカーもあるもんね。
とにかく、応援だけはするから頑張ってよ、アウダース。
AV女優のブログって気後れしてコメしづらいんだよねぇ。
- [2007/06/08 23:05]
久しぶりに翔田千里さんのブログにいったら、淫語マニュアルを読んだって書いてあった。
しかも翔田さんは休暇中に「恋愛できないカラダ」1と2をわざわざ買って見たらしい。
これは、やっぱりぃ、あれだよねぇ。
このブログも翔田さんは見てくれて、興味を示しちゃったんだよね。
そんであんな「春うららのプロモーションビデオ」と「麻郎さんのフラれた話」を買っちゃったんだよね、きっと。
ということで、blogを読んで結構、気をよくしてしまったんで「よし明日は、翔田さんが出ている作品にしよう!」なんて思ってしまいましたとさ。
んで、何にしようかいろいろ迷ったんだけど、翔田さんが楽しそうにやっていた競演ものに決めた。
リコピンや松本亜璃沙さん、南原香織さんが出ているヤツね。
全員、淫語はお手のもので、量もそれなりに多いからこれでいいでしょう。
一応、今後の予定として、そのあとは如月カレンの「変態幼稚園」にしようかなっと。
それとここでは「大人の恋愛」のレビューね。
「大人の恋愛」の方は、ちょっと複雑な思いで見てるんだよね。
このままレビューを書くとまずいような気もしているので、その前にもう一ふり、AVのドラマのレベルの低さについて言及しておきたいな。
AVのドラマ部分ってホント、最悪なのよ。
なんでAVを見ているのにあんなど素人の芝居を見させられなければならないのか。
自分からすれば、S1風の作品が妙に売れるのはそれに対抗できる基軸が弱いからだって思っているんだよね。
実際、自分もS1みたいな作品は見るしね。
だけどさぁ、なんかバカっぽいんだよね。
それはそれでいいんだけどさ、でも真剣に見ると幼稚なものばかりでさ。「淫語」なんていう音声がらみのエロスを追いかけているせいか、ときどきそういう雑な感じが透けて見えてくるときがあるんだよね。
「癒らし。」シリーズっていうのは、そのアンチテーゼであってほしいんだけどね。
どうもヘンな方向に行ってしまったんだよな、今回のAVopenの出品作は。
ホントのことをいうと、今回の「大人の恋愛」はあまり売れて欲しくないんだよね。
これでこのシリーズが認知されると、アウダースにとってもマイナスなんじゃないかって気がしているんだ。
だから、「今のままあまり売れなくてもいいんじゃないの?」 って感じでいたりする。
従来の「大人の恋愛」ファンもあの作りではおそらく納得がいかないはず。
「癒らし。」のSpecial版は、前回の「遠距離恋愛」といい、この「大人の恋愛」といい、どちらも失敗こいていると思う。
本来のシリーズの良さが損なわれてしまっている。
これって、自分たちの作品の良さがよくわかっていないってことなのかなぁ。
まぁ、真希さんや愛さんのカラミ自体はいいんだけどね。
友田真希さんは相変わらず演技のうまいところを見せていたしね。
演出に問題があるけど。
ところで「大人の恋愛」を見て、連城三紀彦の『恋文』を思い浮かべたのは自分だけではないと思うんだけど、実際のところどうなんだろうね。
モチーフはよく似ているんだけど、南★波王監督はショーケンのファンとかだったりするのかな。
blogの文章も距離感が必要なんだなぁ。
- [2007/06/07 14:10]
blogという形で「ボヤキの小窓」を開設してちょうど1年。
そのあいだ、ここもかなり変遷してきている。
もともとは、淫語マニュアルのトップページに小さなフレームを作り、伝言ともグチともつかないことを書いてきた。
06/04/24付けの記事がそのはじまり。いわゆる囲み記事みたいなもん。文章もそれなりに短い。
当時は、データの更新が今よりも頻繁にあった。ほぼ毎日更新していた。
総評はかなり短く、申し訳程度に書いていたし、抽出するデータも今より少なかった。
あの頃は、楽だったなぁ。更新作業も全部で1時間ぐらいだった。
今みたいに、気合いを入れてAVを見て、よく「聴いて」、さぁデータを採るゾ!ってことではなかった。
その淫語マニュアルの囲み記事をこのblogに移動したのが去年の今日。
06/06/07の記事に書いてあるとおり。
まだこの段階では、本サイトに最初の段落だけ載せたりしながら、同じコンテンツを載っけていくつもりだった。
だから、書く長さも自ずと縛りがあった。
でもすぐにいろんなことを自由にたくさん書きたくなってきた。
それが06/06/10の記事。
そして、自宅サーバーを作りたい、もっといろいろ勉強しようなどと思ったり、A8やAmazonのアフィリエイトに申し込んで審査がパスしなくて激しくヘコんだりとかして、気持ち的にも紆余曲折をたどり、あえて普通の本とか映画のこととかも書いてみたり、まぁいろいろやった。
結局、振り分けとか面倒くさくなり、アフィリのバリューコマース担当の人のアドバイスもあって、最終的に06/09/01の淫語マニュアル リニューアル時に独立させて今に至っている。
blogを書きながらつくづく思いしらされたのは、いかに自分の文章は人様に読んでもらえるレベルではないか、ということ。
日頃から、日記とかはつけていたんだけど、やはり人に読んでもらうことを意識していないから、ものすごくユルユルで贅肉もつきまくり。しかもへんに傲慢で、でもおもねってもいて、らしくない格好をつけてみたり、無理して自分の中にない言葉を捻ってみたり、こんな見栄っ張りな文章はイヤだぁ!なんて思いつつ、でも要はこの自意識が問題なんだよなぁと考えたりもして、もう意識するのはやめようと思い直すんだけど、かといってあらためて一読者のつもりで読んでみると、自分が通りすがりの人間なら「未熟だなぁ」、「いくつなんだ、お前」とか思ってしまうのは間違いないところだし、blogにアップする度に、文章のテンポが悪かったりなんだりで、何度も書き直して更新し直すんだけど、なかなかうまくいかなくて、ものすごく不憫な息子を見るようで、昔、北条氏康が小田原城で自分の息子と茶漬けを食ったとき、その息子の茶湯のかけ加減を見て泣いたっていう有名な話があるけど、そういう心境にも似た、なんともいえない不憫な出来損ないの分身を見せつけられているようで、「てにをは」もうまくつけられていないし、主語の後に続く助詞を、「は」にするか「が」にするかでいつも混乱するし、とっちらかって「を」とかにしちゃっていたり、「ら抜き言葉」を意外に使っていたり、読点にいたっては文節ごとに入れたくなるしで、しかもボキャブラリーが少ないじゃないか、あん? 昔、西村寿行がやたら「双眸」だとか「眼光紙背」だとか、いつも決まった言葉しか使ってなくて、「この人、教養なさ過ぎ」とか思って読む度に、ウンザリしてたんだけど、自分も似たようなもんじゃねぇかって、そのあまりの不甲斐なさに愕然として、これではいかんと書きまくっているんだけど、なかなかうまくならない。
今、こうやって書いているあいだにも、何度も、アップしちゃー書き直し、アップしちゃー書き直し、いい加減、疲れた。
まぁそうやって文章と遊びながらどうにかこうにか1年を迎えた。
結局、blogにはblog向きの文章っていうのがあるようだ。
この一年間、いろんな人のblogを読みまくったんだけど、たとえば東良さんのblogなんて、実際に本になっている文章とは書き方がまるきり違っている。
特に、2005年、最初の頃の文章は、時折、妙な照れ隠しみたいなものが語尾に含まれていて、ちょっと面白いと思ったりした。
それで自分も一時期、真似て書いたりしてたんだけど、東良さんのようには、なかなかうまくいかない。
やっぱり、あまり人の真似をしないで普通に書くべきなのかもしれない。
へんに力が入っている文章はよくないものね、それがどんなに面白そうでも。
あと、文章の書き分けね。
東良さんがよくやる料理のレシピ時は、東良さんの文章に含有される照れ隠し度が増すような気がする。
あれは何か意識的に使い分けているのか。
つまり照れ隠しとかそういうんじゃなくて、違った効果をねらっているのか?
本当のところはどうなんだろう?
藩金蓮さんにいたっては、間違いなく文の調子を談話ごとに変えている。
ここまでくるとこの人は実はプロの作家なんじゃないかと思えてくる。彼女より下手くそなライターなんていっぱいいるもんねぇ。
くだけた書き方も「きっこの日記」なんかより全然いい。
職業柄、大勢の、しかもいろんな人を相手に、観光ガイドをして廻る人だから、普段からこういう言語感覚が磨かれてしまうのかもしれない。
もともと関西の人って、その会話からして、東京の人間より相手を意識した言葉遣いをしている印象がある。
だから、そういう西日本文化の気風が、そこにはあるのかもしれないなぁ。
なんてことを考えていたら、アロマの「関西っ娘」を作る気になった。(ウソ)
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うまく言おうとしてはダメなんだな。
- [2007/06/05 12:43]
こどもの頃、家から自転車で20分ぐらいのところに木工所があって、そこのじいさんは冬になると日曜日に木ゴマを作って売っていた。
値段はコマの大小によって様々だったが、高くてもせいぜい500円ぐらい。
当時のこどもでも十分買える金額。
しかもそのじいさんは、溝の彫り込みなんかをこどもたちの注文通りに彫ってくれた。
こどもだから突拍子のないことを言い出すヤツもいるんだけど、そのじいさんはぶっきらぼうに早口でいろいろ確認したあと、次々とこどもたちの要望に沿ったコマを作っていった。
機械で削っていくわけだが、コマが自分の言った通りに出来ていく様は、ただ眺めているだけでわくわくしたものだった。
なにより、香ばしいすれた木クズのニオイが好きで、買ってしまって用はないのに、自分はいつまでもじいさんの仕事場に入り浸った。
じいさんは、ニコリともしない無愛想な人だったけど、見ず知らずのこどもを自分の仕事場に入れるぐらいなんだから、かなりのこども好きだったんだろう。
腕は確かで、そこで作ったコマは市販のコマより良く廻ったし、頑丈で、喧嘩ゴマしてもなかなか倒れなかった。
70年代、そういう個人経営の木工所はあちこちにあった。
そしてそこには、その確かな腕で客の細かいこだわりにも対応し、製品に命を吹き込んでいくような職人がいたんじゃないだろうか。
そこで渡辺琢斗である。
AVSのBBSを覗くと、ただでさえ何かとうるさいAVユーザーの要望に対し、真摯に受け答えをし、できないときはなぜできないか、大人の事情まで披瀝してしまう渡辺琢斗監督。
その作風は地味で、はっきりいって作りもモチーフもほぼ同じ。
丹念に何度もなぞり微調整をくわえながら、フェティッシュなエロスを描き続ける。
監督の日記にもよくでてくる、カメラや撮影機材に対する執心ぶりも、いかにも道具を手のように扱う職人っぽくて、この人の作品にコアな固定ファンがつくのは至極当然のように思える。
その監督に、メールを出したの去年の7月。
淫語作品を追いかけていく中で、渡辺琢斗の作品は何度か見ていたが、AVS専属になってからはあまり淫語にこだわる作品はないようだった。
そういうこともあって、監督に淫語作品を作る気はないのかとメールしたのだ。
そんなに返事を期待していたわけでもない。
だから正直、返信メールがきたときは驚いた。
そこには「私も淫語は大好きです」と書いてあった。
「淫語にこだわった作品も考えていきたい」ともあった。
社交辞令なのかもしれない。
でもそれだけで十分だった。
そして安藤なつ妃の「淫語中出しソープ1」。
自分のメールをちゃんと覚えていてくれたんだと思った。
監督に「淫語! 淫語!!」と騒いでいるのは自分ぐらいだろうから、1ユーザーのわがままを聞き入れてくれたってことになる。
とても嬉しかった。
ということで、肝心の中味だが。
まず淫語というのは、当然だが「言葉」だ。
言葉であるからには、自分の中にある裡なる思いをすくい上げるために使うか、それとも、自分以外の誰か他人に、自分の考えや気持ちを伝えるために使うかということだろう。
つまり「生きた言葉」というのは、その言葉のベクトルが自分自身に向かっているか、それとも他人(それは大いなる存在でもいい)に向かっているかの2方向しかないってことになる。
そこで一番まずいのは、「話し言葉」であるセリフを「音読」してしまうことである。
ただセリフを言っているのでは「読んでいる」のと変わらない。
読んでいる言葉というのは、これはこれで余程の技術がないと、浮いた状態になってしまうのだ。
それはまさに言葉の死産だ。
どんなにユニークな言葉であっても、どこにも伝わることがなく、宙にとけて消えていく。
演技者にとって必要なことは、できるかぎり自分の言いやすい間で、しかも声の出しやすいトーンで、その言葉を言えるかどうかである。
別に感情をこめる必要はない。
素人芝居はこれをやってしまう。
役になりきることと、意識的に感情をこめることとは違う。
むしろ、ヘンに感情をこめた言い方は、おかしく聞こえることが多い。
たとえば悲しい言葉を話すとき、いかにも悲しそうに言おうとすると、意識がそこに向かってしまい、結果として自分にも他人にも向けられない言葉が誕生してしまうことがある。
もう一度いう。言葉も死産するのだ。
結局、こういうのはそれなりのキャリアが必要なのだ。
「自分にとってなにが一番、自然な言い方なのか」ということは、ある程度キャリアを積まないとわからないものではないかと思う。
自分がどういうときに、どういう間でしゃべっているか、さらに何かのリアクションとして、どういうトーンや速度で話してしまうか。
フェラ時でのトーンと本番時でのトーンとでは自ずと違ってくるかもしれない。
その違いを最初から皮膚感覚でわかっている人は稀だ。
ましてや普段から淫語を言い慣れていないとなると、1人語り形式の主観の場合、かなり難しいかもしれない。
今回の作品は、そういう意味で明らかにキャリア不足だと思った。
安藤なつ妃さんも渡辺監督も頑張っていたとは思うが、やはり安定した言い方はできていなかった。
だがその一方、それでも彼女はキャリアさえ積めば、淫語女優として開花するだろうと思った。
あまり淫語を言い慣れていないのに、2回に1回、いや3回に1回でもうまく言えていたんだとしたら、その女優は淫語女優としての素質が十分ってことになるだろう。
しかも彼女は、終盤にさしかかり、徐々にうまくなっていった。これは期待させるものがある。
いずれにしろ、ここまでやってくれれば、淫語マニアとして文句を言うヤツはいないだろう。
チンチン系を聞きたいヤツ以外は、だけど。
渡辺監督は十分、こちらの要望に応えてくれた。
監督は監督なりにもっと煮詰めていく気だったみたいだけど、そういうことも含めてあらためて思うのだ。
渡辺琢斗は職人だ。
渡辺琢斗に比べれば、実録出版の「彼」なんて、まだまだヒヨコだろう。
「職人」の称号を与えるには、役者不足だよ。
少なくても自分はそう思うな。
ということで。
渡辺監督、ありがとう。
次も期待しています。
とりあえず義理は果たせたな。
- [2007/06/01 23:58]
ついさっき、MAX調布店に「名前のない女たち」を買いに行った。
元あけぼの映像の社員、中村淳彦の弟子だった有望な青年、こっちからすると何で彼女を作るために努力しないのか今ひとつわからないMAX調布店アルバイト店員の「エリザベス宮地」クンに会えるかなと思って行ったんだが、彼はいなかった。
まぁ別に彼にどうしても会いたいわけでもないので、そのまますんなり「名前のない女たち」を買って帰ることにした。
だが、支払いを済ませているときに、このまんま帰るのも味気ないかなと思い直して、無理言ってMAX調布店の店員さんに「名前のない女たち」を持ってもらい写メしてみた。
ごらんのように、どうしてもピンぼけ写真になってしまう。
何度も試してみたんだが、うまく撮れない。
あとでウチに帰って自分の携帯をよぉーく見てみたら、レンズに思いっきり指紋のあとがついていた。
MAXの店員さん、そういうことでした。
ピンぼけのままですみません。
それと東良さんのブログを読んでいたら、自分も京都に行きたくなった。
仕事とかサイト管理とか、その他いろんな雑事を全てほっぽりなげて自分も「そうだ京都へ行こう」なんて言ってみたい。
まぁ、向こうは仕事なんだけどね。
でも、京都ってなんか別の時間が流れている感じがするんだよな。
ある意味、アジールそのものだったわけでしょう。
まっ、これからあたしゃ、淫語の数を数えるんですよ。
そんで明日は、このとてつもなく暗そうな「名前のない女たち」を見て過ごすんですよ。
そういう週末なんですよ。
ところで前からずっと不思議に思っていたんだけど、エリザベス宮地クンは自分が卵子だった方の記憶はどうでもいいんですかね。
そっちの記憶の方が気持ちよさそうなんだけど…。
何が何でも精子じゃなくちゃイケないんですかね。
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感動した
ありがとう名無し@ボヤキスポンサーサイトがうざいので更新は必ずするつもりです。
今年はようやく淫語魔に戻れるんじゃないかと思っています。淫語魔ものすごく勝手なイメージなんだけどね山下さんの印象は、エロ仙人ですかねー。淫語魔「名前のない女たち」AVレビューどうなっているんですかねー。今度、ナカムラさんに聞いてみます。淫語魔