主観AVについて 

  • [2011/07/16 22:05]

主観撮影は淫語モノにはよく使われる撮り方なので、淫語AVを見ていると結果的に主観AVばかり見つづけているなんてことがある。
もともと自分は最初にDVDを買ったのがFLAGMANの「結婚相談所」と吉野文鳥の「最高のオナニーのために」ということもあり、主観とは縁が深いのだ。

一時期は、淫語モノではない「癒らし。」というアウダースの恋人バーチャルモノをずっとモニタリングしてきた。最近はさすがに忙しくなりすぎて、「癒らし。」に関してはやめてしまったが、「雌女・熟雌女」は淫語モノでもあるので、今でも見続けて感想を送っている。

その主観AVだが、実はよくよく見ていくと1つのくくりで語ってはいけないのではないかと思いはじめた。たとえば「結婚相談所」と「最オナ」はどちらも主観AVのくくりではあるものの、その作りはあきらかに違うものだった。

自分は主観映像というと、まずはオーソン・ウェルズが指向したいわゆるP.O.Vと呼ばれる撮り方が思い浮かぶ。これは役者の目線と視聴者の目線が全く同じで、主観側の役者はとうぜんそのドラマ設定の中で演技を続けている。AVであればその女優のパフォーマンスは決して1人芝居ではない。あくまで主観男優との掛け合いが主体になる。FLAGMAN監督がやっていた「四畳半ファック」やアウダースの雌女シリーズがそうなのだが、視聴者は男優の体を借りて女優と接するという見方をすることとなる。
これを仮に主観α型(タイプ)と呼ぶとしよう。

これとは別に、女優は男優に話しかけるのではなく画面の向こうにいる視聴者に直接語りかける撮り方がある。αタイプがあくまで主観男優のコミュニケーションを描くのに対し、こちらは完全に女優の1人芝居に近いものとなる。
「最オナ」を含めたいわゆる「オナニーサポート」ものがそうで、かつてはSOD系列が得意としていたものだった。
これには男優の体を依り代にする必要がなく、どちらかと言えばビデオレターやライブチャットに近い。
これらの撮り方をβ型(タイプ)としよう。

一時期、AV業界のひとたちがやたら「最近のAVは極力、男優の存在を薄くすることが求められている」といっていたことがあった。確かに一面ではそう見えなくもない。ユーザーもその意見を是として「男優は黒子である」と言っている事情通もいるようだ。
でもこれが主観AVを指していっているのだとすれば、まったくの見当はずれ、そんな単純なものではないと自分は思う。

主観AVといえども、たとえばαタイプは男優の演技がモノをいう。男優がうまく演じてくれないと女優も反応がしにくいのである。このことはアウダースには何度も申し入れていることではある。
たとえば騎乗位時、もしも目の前におっぱいがあったらいくつかのリアクションが考えられるだろう。おっぱいを揉みしだくにしろ、ソフトに揉むか、鷲づかみするか、それによって女優の対応も変わってくるに違いない。いや揉まずに乳首だけをつねることもありえる。そのとき「デキる女優」なら「乳首勃ってきた?」というかもしれないし「もっと強くつねって」というかもしれない。いずれにしろ新しい展開が台詞の中に生まれてくる。

これをもしも男優側がただマグロ状態で何もしなかったら、台詞の広がりは生まれてこないだろう。そんな角度も展開もないのっぺりした淫語AVはまったくもってつまらない。
αタイプに要求されているのは、相手とのキャッチボールなのである。もちろん男優は言葉を発せない。しかしだからこそボディランゲージの部分で、ちゃんと反応してほしいのだ。そのやりとりは声以上にその男優の個性が出せるはずだ。個性はその人間の態度や姿勢にこそ現れるものだろう。
雌女が途中から女優任せのアドリブにするのはこの可変要素を考慮してのこともある。そこまでいちいち台本には書けないし、書いてもかえっておかしくなる。それよりは役者の自由なイマジネーションに委ねて、その反応を楽しんだ方がいいのである。

一方のβタイプは男優の存在を消すというより、もともとその男の存在そのものが必要のないAVである。だから男優の気配を消すもクソもない。アイドルなどのグラビアで抜くようなものなのだから、そこに別の男の存在があったら返っておかしなことになるだろう。
ここでの女優の台詞は台本通りにした方がいい場合も多いだろう。むしろアドリブにしてしまうとよほど経験豊富な女優でない限りすぐ底が割れてしまう。
台本を書く側は台詞の展開が一辺倒にならないようあらかじめ綿密な構想が必要となってくる。

このようにαタイプとβタイプはまったく別ものであるのは明白なのだが、実はここに制作側の混乱があるのではないかと思うことがある。あきらかにその立て分けができてなくて、それらをごっちゃにしてしまっているように見えるのだ。
こんなことでは見ている視聴者も混乱してしまう。

たとえば途中までβタイプで作られているのに、最後の最後、突如として男優のチンポが画角の隅に現れ女優に顔射したらどうだろう。作り手はそのチンポをユーザーのチンポと見なしてほしいと思うのだろうが、そんなに唐突に出てきたらユーザーは異物を見るような気分になるだろう。とても自分の依り代になるものとはならない。視聴者のチンポではなくどこまでも他人のチンポとして受け取られてしまう。
宇佐美忠則監督がよくこれをやるのだが、まったくナンセンスだと自分は思っている。それまで視聴者に直接語りかけていたのだから、最後までそれは全うすべきである。そこに突然、男優の肉体が現れたら混乱するだろう。それなら最初からなんらかの形で男優の肉体は出しておくべきである。それをしておけば、たとえそれが手だけの登場でも、そこを媒介として感情移入し、その肉体の一部であるチンポは自分のチンポとして認識できるはずだ。そういうことをせずに、最後だけチンポをカットインさせて「ホレ、これはオマエのチンポのはずだ」と言われても見ている視聴者は受け入れられないのである。

さてここまで2つの主観の型を書いてきたが、自分は最近、もう一つの主観AVがあることに気がついた。これをさきにγ型(タイプ)と呼ぶことにしよう。

主観はすべてカメラ目線が基軸である。
そのカメラ目線の意味は、αタイプは主観男優の視点=視聴者の目線、βタイプは視聴者の目線のみ。それによってそのパフォーマンスもαタイプは主観男優との掛け合い。βタイプは画面の向こうにいる視聴者への1人芝居ということになる。
γタイプもカメラ目線なのだが、ただ演技はしない。刺激と反応だけで作られる。とうぜん刺激するものが必要なのだが、このときこそ黒子の男優が登場する。
このときに出てくる男優は個性があってはいけない。まったく黒子であるべきだ。依り代ではないが逆に視聴者の式神のような存在として動き回ることになる。肉人形化している男優は顔もボカシが入っていて、声もあまりださずただ女性の体をまさぐったり、逆にまさぐられたりしている。全身タイツなんてこともありえる。まさに黒子だ。
アロマ企画などではよく見られる手法だ。フェチビデオに一番向いている撮り方なのかもしれない。フェチシズムとはもともと物神崇拝の意だから肉体のモノ化というのは当然のことだともいえる。男優どころか女優の個性も拘泥していない。フェチとはそういうものだ。
ただこのやり方は低予算でできるわりには、あまりまともに作られてきたことがないように思う。鷲本ひろしの後継者は育っていないということだろうか。

γタイプの主観は、刺激と反応を楽しむものでもあるので、女優の演技力はあまり問われない。おそらく素人でもいいはずだ。さらに言えばあくまでリアクションを見るだけなので、着衣のままでも十分である。
出演者に強いることはカメラ目線、台詞が必要ならプロンプすればいい。

このようにα、β、γと立て分ければ主観AVはもう少し整理されて作られるようになるのではないだろうか。
しかしこの手のことはあまりメーカー側は考えていないようだ。
だからときおり不思議なカメラ目線AVを見せられて、なんだかなぁーと思ってしまうのである。

未練を残さぬ女性はカッコイイ 

  • [2011/03/31 23:22]

サイトの構築がぜんぜん終わらない。ドツボにハマった。
このままだとまったく更新しないことになりかねないので、明日からまたマニュアル用にデータを作ることにする。

さてそうなると何をやるかだが、だいぶ間があいたのでかなりたまってきている。
雌女もそうだが、淫語中出しソープもやりたい。特に北条さんのはやっぱりさすが北条さんって感じで、ここまで完璧な女優力を見せつけられると、このシリーズはもう行き着くところまでいってしまったようにすら思った。
いずれにしろ、まずは北条麻妃の中出しソープからはじめようと思う。

その北条麻妃さんとも親しかった有沢実紗さんが今日で完全引退するそうだ。
ブログもmixiもTwitterも今日をもってすべて消す。作品以外は痕跡を残さない。
彼女らしいといえば彼女らしい引退の仕方だ。

彼女とはひょんなことから何回かメールのやりとりをさせてもらった。
そうなると親愛の情も生まれる。いずれは熟雌女あたりに出てくれないかなあと思っていたが、ついにその機会は得られなかった。それでも作品で淫語をちょこちょこ言ってくれるようになって、自分としてはそれだけで嬉しかった。
先に引退した翔田千里、友田真希、それに北条麻妃や村上涼子と競演している「エスカレートしすぎる熟女5人、あなたの自宅に突撃訪問。」は今でもよく見る。
たしかこの中でも有沢さんがいちばん淫語を言ってくれていたと思う。なにより一番キャリアが浅いはずなのに、彼女の弾けっぷりはとにかくスゴい。他の女優さんたちを完全に圧倒していた。

そんなこともあり、最後の最後に彼女にTwitterで挨拶をした。
そうしたら彼女から

@ingo_ma 全然格好よくなんかなれなかったですよ。色々とお世話になりました。有難うございました。
2011.03.31 15:44 via ついっぷる/twipple

と返事があった。
たぶん、これも消されるんだろう。だから記念に残しておこう。
この瞬間だけはいんごまに心かけてくれたのであろうから。

もうすぐ「有沢実紗」はいなくなる。
彼女は否定してたけど、やっぱり自分は最後までカッコいい人だったなぁと思う。

ただ前だけを向いて颯爽と歩く彼女の姿。もちろん彼女なりに葛藤はあったろう。
だからこそカッコイイと思う。

さようなら、有沢実紗さん。
いままでご苦労様でした。

高い山に登れ 

  • [2010/12/26 23:52]

レビューとはなんだろう。
AVをレビューするとはどういうことだろう。
WEBスナイパーでレビューを書き始めて常に考えることだ。

淫語マニュアルは書く内容が決まっている。
「おちんちん」でなくては興奮しない人に「チンポ」しか言っていないビデオを見せることは無意味と言っていい。だが「淫語」と謳っていながらそのことについて表記がなされていない作品は多い。だからそこに「淫語マニュアル」の存在する理由がある。

また人それぞれ女優の好みもある。
熟女がいい人もいれば、ロリ系じゃないとダメな人もいる。
アニメ声がいい人もいれば、ハスキーな声がいい人もいるだろう。
淫語の言い方もシチュによっては違う。それがまったくの素の反応ならばともかく演技であれば当然、うまい・下手がある。

基本的に自分がマニュアルで書かなくてはならないのはそういった情報だ。
当然、これはレビューと呼べるものではない。だが自分のようなユーザーにとってそういう情報こそ必要なのだ。いいAVかどうかの前にそういったデータの羅列がなければ話にならない。
となると、AVレビューは自分のようなユーザーにとって必要のないものかもしれない。

ボヤキでレビューを書くことがある。
フレームの中で感じたことをそのまま文字に起こしてみる。たいていボヤキでレビューするものはヌキが前提になっていない。自分の場合、ヌキの部分は淫語があるかどうかだ。だからこのボヤキで書くレビューはエロではあるがもっと根源的な部分の話だ。
自分は「エロとはなんだろう」とよく考える。
「自分にとって性的興奮とはなんだろうか」と考える。
AVを見ながらそこで描かれる性愛についてどうしても考えてしまう。

それをそのまま文章にしてみる。
すると制作者も気づいていないことを探り当ててしまうことがある。カンパニー松尾さんからも言われた。中村淳彦さんからも言われた。

ボヤキに書いているものは間違いなくレビューだろう。
単なる感想文ではない。自分語りはしていない。あくまで作品に寄り添って書いているつもりだ。

でもこれは実は読者不在なのだ。淫語AVマニュアルの方は淫語ユーザーを想定して書くが、ボヤキのレビューは完全に自分の楽しみとして書いている。
マニュアルは、きっと誰かのためになっているだろうと思っている。だがボヤキはそうではない。
ここは自分の部屋だ。誰かのためになるかどうかは二の次だ。

WEBスナイパーのレビューはそうはいかないだろう。
やはり読んでもらう人に、なんらかの役に立ってほしい。
だが淫語データを書き連ねていくようなわけにはいかない。スナイパーの読者はどちらかというとSM色の強いユーザーが多いだろう。もちろんWEB上のものだから検索で訪れる人もいるはずだ。となれば不特定の雑多なアダルト趣味のユーザーが見るものだということになる。

さて自分はWEBの訪問者に何を伝えることが出来るだろう?
あの文章で楽しんでもらえるだろうか?
そもそもレビューは楽しんでもらうために書くのだろうか?
AVレビューを書くとはどういうことなのだろう。
文芸批評とはどう違うのか。音楽のライナーノーツと同じような解説文でいいのか。
AVにはAV独自の批評があってもいいのではないだろうか?
AVがヌクことを目的としているのなら、自ずと違ってしかるべきだ。

そうか?
本当にそうだろうか?
「淫語AVマニュアル」とも「ボヤキの小窓」とも違う、まったく他人様のスペースで書くようになってそのアプローチの仕方に頭を悩ませている。
ずっと答えを探している。

言葉責めを「する」のと「見せる」のとでは全然違うのだよ 

  • [2010/08/21 22:02]

WEBスナイパーで淫語魔が書いたレビューが載りやした。

特選AVレビュー『“爆イキ”シリーズ SM乳肉プリンセス 淫語オルガ初拘束調教(アートビデオ)』
http://sniper.jp/008sniper/0082avinfo/av_86.php

よい点だけでなく悪いと感じた点もストレートに書いてみたんだけど、そこを削らずちゃんと載っけてくれたので少々びっくりした。
もちろんなぜそう感じるのか根拠をあげたつもりなんで、一方的な批判にはなってないと思う。
それでもこういうのって販促の側面もあるだろうから、あまりマイナス点は書くべきではないのかもと思ったのだけれどすんなり通ってしまった。
メーカーさんから怒られなかったんでしょうかね。

でもね。淫語AVマニュアルのアフィリエイトなんて見ていると、意外と辛口に書いてある方が売れていたりするんだよね。
そもそもからして完璧な作品なんてないわけで、多少のキズがあっても内容が自分の好みにあえば興奮できるわけだし、むしろあらかじめ欠点を知っておいたほうが心の準備ができていいんですよ。
ユーザーは馬鹿じゃないですからね。正直に書いちゃった方がかえって安心して買える。

自分が絶対しちゃいけないと思うのは、作品の企画コンセプトそのものの否定。法律に禁止されていない限りは作品の意図は認めるべきだと思う。
どんなにぶっとんだ企画でも作り方次第では抜ける作品になることもあるはず。

DMMのレビューとか見ていると特定のジャンル、たとえば「ハメ撮り」なら「ハメ撮り」そのものを否定している人がいるけど、ユーザーの中には「ハメ撮り」を好きな人もいるわけだからそこを批難するのはおかしい。
むしろ「ハメ撮り」のよさをわかった上で、その技術がいいかどうかを見極めていくべきで、そのよさを理解できていないヤツがあれこれいうのは間違っている。
判断する基準をその人はもってないわけだから。

今は主観映像で男の声を入れてくるところは少ない。
ユーザーからの要望がつよくあるからだけど、でもそれでも監督があえて男の声を入れるべきだと判断したのなら、そのこと自体は尊重すべきだと思う。
ただし圧倒的なユーザーの支持を無視して男の声を入れるからには、とうぜんそこには勝算があってのことだと思う。男優の言葉の扱いなど厳しい視線にさらされることになる。
あえて挑戦したのだ。もしもお粗末な言葉のやりとりしかできなかったときはその責めを負うべきだろう。

こっちは高い金を出して見ているわけだからね。
黙って猿芝居につき合わされる義理はない。

それとやっぱりパケの表記は大事。
買う側からすればそこに書かれてある情報に乗っかる形で金を払っているわけで、たとえば「シーメールビデオ」なのに中身を見たら「フタナリ」だったじゃ話にならない。
たとえそれがどんなに完成度の高い「フタナリビデオ」だったとしても、購買したユーザーに対する裏切りとなる。期待に反して興味のない内容を見せられるのは不快でしかない。

でもそういうことを平気でやってきたのがAVのパケ表記なんだよねぇ。

かつてはAV評論なるものも存在していた 

  • [2010/08/13 17:43]

ユーザーとメーカーと制作現場との間に言葉の齟齬がある。

たとえば制作側が「これはいい作品だ」というのと、ユーザーから「これはいい作品だ」と評価するものは必ずしも一致しない。それは売る側のメーカーとて同じだろう。

これは「抜ける」ということにしたって同様だ。
AVは「抜けなきゃ意味がない」という言葉に反応する監督もいるが、それでは「抜けるとは何か」を説明できる人はどれだけいるのだろう。

わかっているのなら教えてほしい。「なぜ淫語はいやらしいのか」を。
あるいは「なぜ自分は淫語をいやらしいと感じるのか?」

だがちゃんとした答えを示せるエロ業界の人はひとりもいない。
もう4年以上サイトをやってひたすら淫語AVを見ているが、いまだになーんにもわかってないようなAVを作ってくるのはどうしたことか?

いったい「抜ける」とはどういうことなのだろう。どうしてAVには「抜けない作品」が存在するのだろう。
まさか「ハメシロ」見せて、「カメラ目線」で「アンアン」いえば「抜ける作品」ができると思っているわけではないだろう。
もしも「カメラ目線」が大事だとして、それではなぜ「カメラ目線」なのか追求した人はいるのだろうか?
適当なことはいくらでも言える。でも自分はまだちゃんとした答えを聞いたことがない。

そこをつっこんでいくと今度は「エロは人それぞれ」で逃げる人たちもいる。
自分のようなユーザーが言うのならいいだろう。だがそれをエロ業界人が簡単に口にしてはダメだ。それは表現者として無能を晒しているにすぎない。

淫語AVマニュアルを作ったのは、もっとユーザーが知りたい視点で書いたらどうなるかということだった。
淫語ビデオなのに「いやらしい淫語を連発」とかでお茶を濁し、淫語マニアにはなにも益さないレビューを書き散らしてきた連中の鼻をあかすために作った。

でもそれではあれは評論かというそんなことはない。
あれは情報の羅列だ。淫語マニアにとってはいいが、淫語に興味のない人たちにはただクレイジーな淫語カウントが書かれてあるだけだ。もしも自分がマニアじゃなきや結構気持ち悪いサイトと思ったことだろう。
淫語の魅力を伝える気などほとんどないのだから当然だ。

だが最近マニア向けのレビューではなくて、淫語属性のない人間でも引き込めるような文章を書かなきゃいけないかなぁと思いはじめている。
不特定多数の人間に「淫語のエロス」を納得させることができる文章。それが書けてはじめて淫語AVに詳しいと言えるのではないか。

それは何も淫語に限ったことではない。
確かにエロとは個人的なものだ。でもエロのメカニズムは普遍的なものであることも事実だ。
「抜ける」ということのメカニズムを暴きたてる努力。そしてそれを伝え納得させる論理展開。
純粋に抽出されれば自然と詩的表現へ昇華されていくだろう。

そうなってはじめて「AV評論」と呼べるものができる。