人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり 

  • [2007/04/27 20:19]

ときどき昔の作品を見ていると、今も現役を続けているAV男優の若かりし頃を見ることがある。
とくに昔の流出モノなんかを見ていると、斉藤竜一だとか加藤鷹とかの初々しい感じのカラミが見られる。

それで思うんだけど、若い頃の方がやっぱり声に張りがあっていいんだよねえ。人によっては、あどを打つ感じが美丈夫の舞って趣きすらあったりする。
中には最初からうるさいゴリラーマンもいるけど、今、一線級の人は昔はなかなか見栄えのいい竿師だったりして、どこでどうおかしくなっていったんだろうって思って首をひねるときもある。
要するに、若いということは、それだけで華があるってことなんだろうか。

別にそんなに遡んなくても、卍郎君なんかさ、5年ぐらい前にレイデックスとかに出ていた頃のドラマ物の方がいいじゃんって思ったりする。
昔の方が声の出方が良かったんだよね。
彼は、声優さんになってもいいような、とても良い声をしているのに、聞いているとどうもヘンな音が混じっていたりする。
もともといいものを持っているのに、実に惜しい。

実際、彼がマグロで仰向けになっているとき、口先で声を出しているからイヤな音が漏れて耳障りなんだけど、撮影が進んでヘトヘトになってくると、イイ感じで腹から声が出始めることもままある。
声を出し続けてているうちに余計な力が抜けて、自然と楽な声の出し方をするからなんだと思う。
もともと仰向けに寝れば腹式呼吸にはなりやすいから、通りの良い声がでることはよくある。
実際、発声練習を始めるときに、仰臥の体勢から始めたりすることもある。演劇部なんかがよくやっているよね。

だから、卍郎君も意図的ではないと思うんだけど、「エロスの地獄」の最後のシーンなんて、結構、聞きやすい感じのあえぎ声を出していた。
でもね。ちょい昔の彼は、そんなこととは関係なくイイ感じであえいでいたんだよね。
彼、芝居自体もうまい方だしさ。なんでもっと鍛錬しないんだろ。

風姿花伝に「これもまことの花にはあらず。年の盛りと見る人の一端の心の珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし」という有名な言葉がある。

若いと「花」がある。けれどそれは本当の意味での芸能の「花」ではない。ただ若さの勢いと目新しさから生じる「花」だと世阿弥は言っている。
見る人が見れば、アラが見えてしまう。

AV女優の方は消耗品みたいところもある。
そんなに長く続けている人はまれだ。
若さと目新しさだけで売って、賞味期限がすぎればそのまま引退もありであろう。
実際、消耗品のそしりを免れそうなのは、現状、森下くるみぐらいだ。

だが、男優は違う。長いスパン仕事をしているわけだし、一線級のAV男優ならAV女優よりも出演本数が多いはず。しかも20年選手だっている。
生活だってかかっているだろうから、消耗品でいいってわけにもいかないでしょ。
ずっと竿一本で金を貰いつづけていくわけで、プロならプロとしてやはり日々精進してほしいものだ。

ちなみに風姿花伝にはこんな一節もある。

「上手の目利かずの合はぬこと、これは目利かずの眼の及ばぬところなれども、得たる上手にて工夫あらん為手ならば、また目利かずの眼にも面白しと見るやうに能すべし」(風姿花伝第五 奥儀云)

つまり「観客が程度の低い人間で、プロの技を面白がれる人間でなかったとしても、芸をきわめ、日々工夫をこらすような者ならば、その観客のレベルに合わせて面白がらせるように演じられるはずだ」っていう意味。

でも、これはなんの仕事でも言える話だけどね。人相手の商売なら。
いや夫婦間でも言えそうだな。
夫は夫として、妻は妻としてそれぞれプロにならなくてはね。

人は完璧じゃないからさ、合わせたり合わしてもらったりしないとやっていけない。
んで、それぞれがそれぞれの役を演じきらないと、たちまちに壊れてしまう。
人との結び付きなんて、努力しないと結構もろいもんなんだよね。

人であることは、げに難しきことよ。