かつてはAV評論なるものも存在していた 

  • [2010/08/13 17:43]

ユーザーとメーカーと制作現場との間に言葉の齟齬がある。

たとえば制作側が「これはいい作品だ」というのと、ユーザーから「これはいい作品だ」と評価するものは必ずしも一致しない。それは売る側のメーカーとて同じだろう。

これは「抜ける」ということにしたって同様だ。
AVは「抜けなきゃ意味がない」という言葉に反応する監督もいるが、それでは「抜けるとは何か」を説明できる人はどれだけいるのだろう。

わかっているのなら教えてほしい。「なぜ淫語はいやらしいのか」を。
あるいは「なぜ自分は淫語をいやらしいと感じるのか?」

だがちゃんとした答えを示せるエロ業界の人はひとりもいない。
もう4年以上サイトをやってひたすら淫語AVを見ているが、いまだになーんにもわかってないようなAVを作ってくるのはどうしたことか?

いったい「抜ける」とはどういうことなのだろう。どうしてAVには「抜けない作品」が存在するのだろう。
まさか「ハメシロ」見せて、「カメラ目線」で「アンアン」いえば「抜ける作品」ができると思っているわけではないだろう。
もしも「カメラ目線」が大事だとして、それではなぜ「カメラ目線」なのか追求した人はいるのだろうか?
適当なことはいくらでも言える。でも自分はまだちゃんとした答えを聞いたことがない。

そこをつっこんでいくと今度は「エロは人それぞれ」で逃げる人たちもいる。
自分のようなユーザーが言うのならいいだろう。だがそれをエロ業界人が簡単に口にしてはダメだ。それは表現者として無能を晒しているにすぎない。

淫語AVマニュアルを作ったのは、もっとユーザーが知りたい視点で書いたらどうなるかということだった。
淫語ビデオなのに「いやらしい淫語を連発」とかでお茶を濁し、淫語マニアにはなにも益さないレビューを書き散らしてきた連中の鼻をあかすために作った。

でもそれではあれは評論かというそんなことはない。
あれは情報の羅列だ。淫語マニアにとってはいいが、淫語に興味のない人たちにはただクレイジーな淫語カウントが書かれてあるだけだ。もしも自分がマニアじゃなきや結構気持ち悪いサイトと思ったことだろう。
淫語の魅力を伝える気などほとんどないのだから当然だ。

だが最近マニア向けのレビューではなくて、淫語属性のない人間でも引き込めるような文章を書かなきゃいけないかなぁと思いはじめている。
不特定多数の人間に「淫語のエロス」を納得させることができる文章。それが書けてはじめて淫語AVに詳しいと言えるのではないか。

それは何も淫語に限ったことではない。
確かにエロとは個人的なものだ。でもエロのメカニズムは普遍的なものであることも事実だ。
「抜ける」ということのメカニズムを暴きたてる努力。そしてそれを伝え納得させる論理展開。
純粋に抽出されれば自然と詩的表現へ昇華されていくだろう。

そうなってはじめて「AV評論」と呼べるものができる。