「婦唱夫随」って誤字じゃなくわざと書いたんだからね 

  • [2011/01/30 21:52]

真咲南朋がTwitterをはじめたのだ。
http://twitter.com/#!/nantomo0724

登録したのはもっと前なんだけど、先週ぐらいからやっとつぶやき始めた。

ということでそろそろ真咲作品をレビューしないといけない。
そんで今「ディープレズビアン」を見てるんだけど、「なんかピンク映画っぽい作りだなぁ」って最初に思った。
カットバックがあったり、イマジナリーラインを守っていたり、彼女のことだからそういう映画の撮影技法をチョコチョコ勉強しているんだろうなぁとは思う。真面目だからねぇ。自然と本格志向になるんだろう。

AVって実際はかなり自由な撮り方をしていて、必ずしも映画の技法が取り入れられているわけではない。むしろそういった制約を離れたおもしろさみたいなところもあるんだけど、でもやっぱりドラマものを撮るのならこれぐらいの保守的な撮り方のほうが安心して見ていられる。
その意気やヨシですよ。

あとまぁこの作品に関しては彼女の旦那が音楽を担当していて、オリジナルの曲を自分で作っているのよね。つまり「婦唱夫随」のBGMなんですよ。
「AVのBGM」って基本的にフリーの音源を使うのでいろんな作品で使い回されている曲がいくつかあったりするのね。前に見た「近親相姦の陵辱もの」で使われていた曲が、次に見た「ラブラブデートもの」で使われていたりとそれだけで萎えることがあるんだけど、真咲さんのは正真正銘のオリジナルなわけでその点も本格的なわけ。
やっぱり映像もオリジナルなら音楽もオリジナルであってほしいよね。

ところで自分は真咲南朋さんがまだ「安藤なつ妃」という名前だった頃、渡辺琢斗監督の「淫語中出しソープ」でお世話になっていたわけだけど、彼女の旦那と知り合いになり、2人の赤ん坊まで対面した今となってはもう彼女では抜けなくなってしまった。
もちろん彼女に会えば基本的にキレイなコだから、女性の持つ魅力は感じるんだけど、そういうエロスイッチは幾重にもコーティングされいてウンともスンとも言わない。

自分はさぁ昔からそうなんだけど、どんなに好みのタイプの女性でも彼氏がいるとわかった瞬間、その気持ちが押さえ気味になるのね。そして実際にその彼氏と会うことにでもなれば、今度は押さえてるはずの「気持ち」すらなくなって、その女性は性的な意味合いを無くした単なる知り合いと変わることになる。もちろん女性としての魅力は感じているわけだけど、発情することはなくなりそれがどんなに魅力的な女性でも「萌え」どまりで終わることになる。
ものすごく好きな人であれば会うこと自体は嬉しくてテンションはあがるわけだけど、「カワイイ」以上には発展することはないんだよね。

それでもおっちゃんはそれなりに長く生きているので、何回かそんな状況の女性とエッチを試みたことがある。でも結果的にはうまくいかない。頭も心も求めているんだけど、体がね、ついていかない。昔からそういうことで不能になってしまう。
今は年食っているから不能状態に拍車が掛かっていることだろう。
やっぱり「萌え」だけでは抜けないんだな。

それで真咲さんの話に戻すと、基本的に淫語魔のおっちゃんは彼女の旦那のことを好青年だと思っていて、2人にはうまくやっていってほしいと願う気持ちが強い。
だから真咲さんについてはそういう視線で見ることがなくなってしまった。親戚のオヤジの感覚に近いのかもしれない。実際、ホントにお似合いの夫婦なんですよ。

でもさ、世の中にはそういう関係だからこそ興奮するヤツもいるのよね。
女性でも彼女のいる男とばかり関係したがるヤツとか、中には友だちの彼氏にちょっかいを出すのが好きな女とか。いわゆる「ヤリマン」でもトラブルメーカー的なヤリマン。
男にも「ヤリチン」はいるけれど、男のヤリチンは穴があれば入れたいというだけで、同じ病気にしても「ヤリマン」とは少し違うように思う。

ただどっちにしても、おっちゃんは基本的に純愛路線の人だからさ、そういうのはイクナイって思ってしまうのね。
それによく見ているとさ、そういう人は決して幸せそうではないでしょ。
昨日まで親しかったはずの知り合いに、突然ナイフで刺されるかもしれないんだよ。社会的にはそんな人間はクズ以外の何者でもないんだからね。
そういったことを自覚した上でやっているなら、ヤリチンもヤリマンも逆にカッコイイ。それはそれでありだと思う。

昔からそういうのを描いた話はいくらでもある。人間というのは虚構を楽しむことで自分の心の中にある反社会的なものとうまく折り合っているんだろう。そしてそれこそ古代から人間がドラマを作り、お芝居に興じてきた理由なのかもしれない。
優れたドラマというのはなにがしか反社会的なものが底流に流れている。それが人間の証だといわんばかりに。

ヨヨチューのドキュメンタリー作品にしても、やっぱり虚構の部分があるからこそ創作物として成立している。まさに「虚実皮膜」の世界。いろいろな愛の形を虚実入り混ぜながら見せてくれる。

もっとも最近のヨヨチューはそういった作品を撮らなくなってしまった。
やっぱりドキュメンタリーじゃ観察者に徹したとしてもシンドイことなのかもしれないね。