ふだんつけている日記から 

えー腹が減っております。
こういうときはとっとと寝てしまおうと早速、布団に潜り込んでうとうとしていたわけです。そりゃデスクワークとはいえ空腹のままいれば疲れもでてくるもんでしょう。なんとか眠ることに成功したんですが、さっき携帯が鳴ってしまいまして、これで目が覚めてしまいました。

もうしばらく眠れそうにないので、なんとなくブログを書いています。
でもとくに何を書くか決めずに書き出しちゃったので、今日は本当につけている自分の日記から、さらしても大丈夫そうなヤツを。

08/12/18(木) 20:24:39

勘違いをしている人間を理解させるには、とっつかまえて一つひとつ教えていくしかない。
だが思い込みが強い場合、こちらの意図を理解しようという作業をやらない。
となるとそういうに人間にはどう対処すればいい?

こちらも相手を決めつけて言い続けるしかないか。不毛な戦いだけど。

なんだろうね、これ。
自分の日記は具体的記述もあるんだけど、ときどきこういうわけのわからんものもあって、後で読み返してみると何のこと言っているのかわからないときがある。

08/12/19(金) 20:47:16

ひねくれ方が正直な人っているよなぁ。
素直じゃないことを正直に書いている人。
書いてみてから、自分が素直じゃないと言うことを自覚しますますひねくれてみて、それを自らルサンチマンと評し、自虐し、嗤い、自己諧謔と自己憐憫の下に対象のない嫉妬の炎を燃やして、さらにますますひねくれる。

執着心が強くて、言葉の端々からそれが吹き出てくるからその処理に何か別の自意識を引っ張り出して糊塗する。

そんな自分についには疲れ、向き合うことからエスケープしてみる。
でも本然的に執着心が強いから結局何かに向き合うしかない。

向き合うことはその人にとって生きることだから。

これは誰について言ってるんだろうなぁ。
今となっては、さっぱりわからん。

09/01/22(木) 20:48:53

やっぱり言葉は冗長率。
非言語の使い方に表情が出るし、それが多ければ多いほど相手を意識しての言葉ということになる。

七咲楓花と鮎川なおを見比べてみると歴然とする。

これは癒らし。を見比べてみたときの感想だね、たぶん。

09/03/04(水) 21:30:44

理屈を言ってくる相手には、理屈で返しても、火に油をそそぐだけ。
それより「君って優しくないねぇ」と人との接し方について、形容してしまえばそれは精神的にダメージを与えることができる。

人は理屈よりも、人からどう見られているかの方が心につきささる。
その上であらためて理屈を言えば、それは相手の心に棘となって突き刺さり、棘が抜け落ちた後、ぽっかりあいたその穴から徐々に毒がしみこんでいくだろう。

これがよくわからない。
2ヶ月ちょっと前のことなんだけど、何を言っているんだろう?

09/03/18(水) 23:27:19

 現実主義者が信仰にみちびかれるのは、奇跡によってではない。まことの現実主義者で、かつ何の宗教も信仰していない人間は、どんなときも奇跡を信じずにいられる強さと能力をもっているものである。もしも目の前で、うむを言わさぬ事実として奇跡が起きたなら、現実主義者はそれを認めるより、むしろ自分の感覚に疑いをいだくだろう。かりにその事実を認めるにせよ、それは自然の法則内での事実であり、自分にはその事実がただ未知のものにすぎなかったと考える。
 現実主義者においては、信仰心は奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰心から生まれるのだ。現実主義者がいったん信仰心を抱くと、彼はまさにみずからの現実主義にしたがって、必ずや奇跡を許容せざるをえなくなる。使徒トマスは、自分の目で見るまではキリストの復活など信じないと言明したが、じっさいにイエスの姿を目にすると、「わが主よ、わが神よ!」と言ったという。彼を信じさせたのは、果たして奇跡だったろうか? いや、おそらくそうではない。トマスが復活を信じたのは、ただ信じたいと願ったからにほかならず、あるいは「見るまでは信じない」と口にしたときすでに、心の奥底では復活を確信していたのだろう。

 カラマーゾフ1巻 光文社文庫64p

ときどき読んでる本から抜き書きしたりするんだよね。
しかも感想も何もなく、それしか書いてない日がある。

09/03/21(土) 07:26:48

「いや、ディドロのことではありません。大事なのは、自分に嘘をつかないことです。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間というのは、自分のなかにもまわりの人間のなかにも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては、自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。だれも敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちをまぎわらそうと、情欲や下品な快楽に耽って、ついには犬畜生にもひとしい悪徳に身を落とすことになるのですが、それというのもすべて、人々や自分に対する絶え間ない嘘から生まれることなのです。
 自分に嘘をつくものは、他のだれよりも腹を立てやすい。なにしろ、腹を立てるというのは、時としてたいそう愉快なものですからね。そうではありませんか? なにしろ、本人からしてわきまえているのですよ。自分を傷つけたものなどだれもおらず、本人が勝手に傷をこしらえ、体裁をつけるためにほらを吹き、絵としてさまになるように誇張し、他人の言葉尻をつかまえては、針ほどのことをまるで棒のように触れまわっていることを。でも、それでもやはり当人は腹を立てるわけです。胸のつかえが下りるまで、より大きな満足感が得られるまで腹を立てる。まさにそういうことを繰り返しているうちに、ついにはほんものの敵意が生まれることになるのです……。お願いですから、さあ、一度立って、お座りください。なにしろ、それもみな偽りの仕草ですからね……」

カラマーゾフ1巻 光文社古典新訳文庫 113p

亀山郁夫さんの講演に行ったら、亀山さんはカラマーゾフの兄弟の訳し方として文章のリズム、とくに会話文のリズム感を気にして翻訳をしてみたんだそうだ。

確かに亀山訳は読みやすい。新潮文庫の原卓也訳は正確なんだろうけど、亀山訳に比べると今ひとつ頭に入りにくい。でも亀山訳を読んで原訳を読むとドストエフスキーのすごさがますます立ち現れてくる。

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