「猫と遊郭」 そろそろ終わりたいその4 

さて薄雲伝説の続きだ。

三浦の親方耳に入て、薄雲に異見して、古より噺し伝ふ訳もあり、余り猫を愛し給ふ事なかれ、と云、薄雲も人々の物語の恐ろしく思ひ、韻愛怠りけれども、猫はたゞ薄雲をしたひ放れず、人々是を追放しければ、只悲しげに泣さけび、打杖の下よりも、薄雲が膝もとはなるゝ事を悲みけり、殊にかわやへの用たし毎に、猶も付行ける故、人々度々追ちらしけれ共、したひ来るゆゑ、いよいよ此猫見込しならん、と家内の者寄合相談して、所詮此猫を打殺し仕廻んとて、手組居る処に、薄雲ある日用達しにかわやへゆきしに、何方よりか猫来りて、同じくかわやへ入らんとするを見付、家内の男女、追かけ追ちらさんとす、亭主脇差をぬき、切かけしに、猫の首水もたまらず打落す、其首とんで厠より下へくゞり、猫のどうは戸口に残り、首は見へず、方々と尋ねければ、厠の下の角の方に、大きなる蛇の住居して居たりし其所へ、件の猫の頭喰付て、蛇をくひ殺していたり、人々きもをつぶし、手を打て感じけるは、是は、此蛇の廊に住て薄雲を見込しを不知、とがなき猫に心を付、斯く心ある猫を殺しけるこそ卒忽なれ、日比寵愛せしゆゑ、猫は厚恩をおもひて如斯やさしき心ねなるを、しらず殺せし事の残念さよ、といづれも感を催しけり、薄雲は猶も不便のまして、泪を流し、終に其猫の骸を道哲へ納て、猫塚と云り、是よりして、揚屋通ひの遊女、多くは猫を飼ひ、禿にもたせねばならぬように、風俗となりしとなり

ここは訳す上でそんな難しいところはないね。
ただ古文のリズムに現代文を合わせるのが難しい。

三浦屋の主人にもこの(薄雲が猫に魅入られているという)噂が耳に入って薄雲に意見して「昔から猫は魔をなす生き物だと言われている。あまり猫を愛しすぎてはいけない」と言う。
薄雲太夫も廻りの人の話から気味悪くなって猫を遠ざけるようにしたが、それでも猫の方は薄雲から離れようとしない。
店の人が追い払えば悲しげに泣き、棒で叩いても薄雲の側を離れることに悲しむ。ことに薄雲が厠に立つたびについていこうとするので、とうとう見捨てては置けないと店のものが相談して「殺してしまおう」ということになった。

その手はずを調えているとある日薄雲が厠に立った。どこからともなく猫も現れて、同じように厠に入ろうとする。それを見て店中のものが追いかけ回す。三浦屋の主人が脇差しを抜いて斬りつけると、スパッと猫の首が打ち落とされ、そのまま飛んで厠の下をくぐり抜けていく。あとには胴体ばかりが戸口に残った。猫の首を探してあちこち見て回ると、厠の下、隅の方に大きな蛇の巣があり、そこに猫の首が食らいついて蛇を食い殺していた。
人々は肝をつぶし、はたと手を打って思うのは、「これは、この蛇が厠に住み着いて、薄雲をねらっていた。そのことがわからずに罪のない猫に疑いをかけ、このような心ある猫を殺してしまったのはかなりの軽率だった。猫は日頃から薄雲に可愛がられ、その恩に厚く報いようとしていたのに、その優しい猫の思いもわからずに殺してしまったのは残念でならない」と誰もが心打たれていた。
ことに薄雲はいつまでも不憫に思い涙を流し、ついには猫の遺骸を西方寺に納めて猫塚とした。

これにより揚屋へ道中する遊女の多くは猫を飼うようになり、禿に持たせるような風俗となっていったのである。

この刎ねられた猫の首が飛んで、仇なす蛇を食い殺す話はほかにもある。
たとえば、山形県にある猫の宮の話。

あと蛇を食い殺したのが猫じゃなく犬だと、民話として同系統の話がたくさん残っている。
いちばん古そうなのは、秦河勝の犬の話。

だからこの猫の報恩譚自体はあとからつけられたのだろうって話になる。

江戸の読本作者、山東京山も『朧月猫の草紙』の中でそのことを指摘している。

朧月猫の草紙

ちょっと長くなるけど、全部書き出してみる。

○猫恩を報ずる話
寛文年中の人の作に松下庵随筆といふ写本あり 巻の六に見えたる猫のはなしをこゝに指摘(とりつま)む。
●万治のころ 京のをかざきといふ所に住む浪人のむすめ 畜猫(かいねこ)を愛すること 親が子をあいするよりはなはだし ねこも此のむすめになれしたいて かたときそばをはなれず 娘 厠にへゆく時かならずついてゆく事 常なりければ なにがしのむすめはねこに見入られしなど人のうわさするよし おやたちききてうたてき事におもひ ある日むすめにかくして猫をすてけり さとその夜 むすめかわやへゆくとてえんがはをとおりける時 庭の志げみより大へび箭のごとくとびきたり むすめにとびつかんと志たるに かのねこいつのまにかへりけん むすめのうしろよりはせいでとびかゝるへびのかしらにくひつきければ むすめああとさけびておどろくこゑにちちはははせつけ手燭(てしょく)にてらしみればねこはへびにまかれながらへびをくいころし 目はなよりちしをながれて志しけり さてねこは日ごろのおんをほうじたるらんと①
②あつく(ほうむ)り蛇の志がいはやきすてけるに むすめがねにはめたる指環(ゆびわ)のうせたるがへびのはらよりいでけり さては此のへびこそ娘ほ見入れたれねこはそれを志りて娘のそばをはなれずまもりたるならんと猫が義心をかんじけりとかの浪人に志たしき人にきゝぬ」とかの本に見えたり。京山(あんずる)に遊女うす雲がねこのはなしはこれにもとづきたるそらごとなるべし太平廣記巻の四百四十猫の部に猫が(たつ)になりたるはなしもあればおんを志りてへびをくいころしたるはま事なるべし

ああ、書き出すだけで疲れた。

んでこれをまた全文訳すのは大変だなぁ。

要するに寛文の頃に(1661~72)に書かれた『松下庵随筆』という本に、万治年間(1658~60)京の岡崎にいた浪人の話として、浪人の娘の飼い猫が、娘が厠に行くと必ずついていくので、娘が魅入られたと心配する。そこで娘にだまって猫をこっそり捨てる。その夜、厠で娘が蛇に襲われそうになる。そこへ捨てたはずの猫が走ってきて蛇と格闘して食い殺す。どうやら娘に魅入ったのは蛇の方で、猫は飼い主を守るために側からはなれず、ついには娘を救ったという話。

それで山東京山によれば、あの有名な薄雲太夫の猫話は、この話をヒントにして作ったフィクションだろうと言っている。

この『朧月猫の草紙』のこの箇所が書かれたのは1848年なので、薄雲の時代から150年近く経っていることになる。

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