砂が手からこぼれおちていく瞬間 

昨日と今日と知人やそのご家族の訃報が立て続けに舞い込んで、今日もこれから枕経に参加するのと、明日から火木土とお通夜に行かなきゃいけない。
どれも前から危ないと聞いていたので、それほどショックなことではないんだけど、やはり人の死に接するというのは厳かな気分になる。
特に親しかった友人の息子さんの死は、彼が赤ちゃんの頃から知っていただけにやるせないし、愛する我が子を失った友人夫妻になんて声をかけてあげればいいのかわからない。

人の死は理不尽だ。
特に愛する者を失うことはどんなに覚悟をしててもあとからそっと寂寥感がやってくる。

結婚はしたものの、病気のため子どもをあきらめ、愛する男の体も触れず、それでも納得しすべてを赦し、死を受け入れて亡くなっていった31の女のことを思う。
愛する者が死んだら死ななきゃいけない。

この間、「自分はこのまま不幸のままだったら死にたい」と言ってきた女の人がいた。
生きたくても生きられなかった女を思い、胸が一瞬チクッとしたが、そんなことは彼女のうかがいしれないことだ。
彼女の愚痴につきあっていたらその対応を怒られた。
血が通っていないと言われた。
優しくないと言われた。

子どもを生めずに死んでいった女を侮辱していることに彼女は気づいていないようだった。
理屈に逃げる人の心を理解できないほど、自分しか見えてなかったのだろう。

あのとき、自分は一度死んだ。
あとはおまけの人生だ。

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