高い山に登れ 

レビューとはなんだろう。
AVをレビューするとはどういうことだろう。
WEBスナイパーでレビューを書き始めて常に考えることだ。

淫語マニュアルは書く内容が決まっている。
「おちんちん」でなくては興奮しない人に「チンポ」しか言っていないビデオを見せることは無意味と言っていい。だが「淫語」と謳っていながらそのことについて表記がなされていない作品は多い。だからそこに「淫語マニュアル」の存在する理由がある。

また人それぞれ女優の好みもある。
熟女がいい人もいれば、ロリ系じゃないとダメな人もいる。
アニメ声がいい人もいれば、ハスキーな声がいい人もいるだろう。
淫語の言い方もシチュによっては違う。それがまったくの素の反応ならばともかく演技であれば当然、うまい・下手がある。

基本的に自分がマニュアルで書かなくてはならないのはそういった情報だ。
当然、これはレビューと呼べるものではない。だが自分のようなユーザーにとってそういう情報こそ必要なのだ。いいAVかどうかの前にそういったデータの羅列がなければ話にならない。
となると、AVレビューは自分のようなユーザーにとって必要のないものかもしれない。

ボヤキでレビューを書くことがある。
フレームの中で感じたことをそのまま文字に起こしてみる。たいていボヤキでレビューするものはヌキが前提になっていない。自分の場合、ヌキの部分は淫語があるかどうかだ。だからこのボヤキで書くレビューはエロではあるがもっと根源的な部分の話だ。
自分は「エロとはなんだろう」とよく考える。
「自分にとって性的興奮とはなんだろうか」と考える。
AVを見ながらそこで描かれる性愛についてどうしても考えてしまう。

それをそのまま文章にしてみる。
すると制作者も気づいていないことを探り当ててしまうことがある。カンパニー松尾さんからも言われた。中村淳彦さんからも言われた。

ボヤキに書いているものは間違いなくレビューだろう。
単なる感想文ではない。自分語りはしていない。あくまで作品に寄り添って書いているつもりだ。

でもこれは実は読者不在なのだ。淫語AVマニュアルの方は淫語ユーザーを想定して書くが、ボヤキのレビューは完全に自分の楽しみとして書いている。
マニュアルは、きっと誰かのためになっているだろうと思っている。だがボヤキはそうではない。
ここは自分の部屋だ。誰かのためになるかどうかは二の次だ。

WEBスナイパーのレビューはそうはいかないだろう。
やはり読んでもらう人に、なんらかの役に立ってほしい。
だが淫語データを書き連ねていくようなわけにはいかない。スナイパーの読者はどちらかというとSM色の強いユーザーが多いだろう。もちろんWEB上のものだから検索で訪れる人もいるはずだ。となれば不特定の雑多なアダルト趣味のユーザーが見るものだということになる。

さて自分はWEBの訪問者に何を伝えることが出来るだろう?
あの文章で楽しんでもらえるだろうか?
そもそもレビューは楽しんでもらうために書くのだろうか?
AVレビューを書くとはどういうことなのだろう。
文芸批評とはどう違うのか。音楽のライナーノーツと同じような解説文でいいのか。
AVにはAV独自の批評があってもいいのではないだろうか?
AVがヌクことを目的としているのなら、自ずと違ってしかるべきだ。

そうか?
本当にそうだろうか?
「淫語AVマニュアル」とも「ボヤキの小窓」とも違う、まったく他人様のスペースで書くようになってそのアプローチの仕方に頭を悩ませている。
ずっと答えを探している。

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