最後まで見捨てないことが本当の友情 

今月は毎週のように刺激的な人たちにあって大変面白い月だった。
3月が震災の月だったこともあり、精神的にちょっと鬱っぽいところもあったんだけど、エロい人たちと会っていく中で少しずつ気持ちも立ち直ってきた。やっぱりエロは大事ってことみたいだ。
んで、そろそろ出力していこうかと思うのでつらつらと予告並びに前置きを。

まずはわかみほさんのストリップの報告ね。これは4月最初の水曜日の出来事だった。
ブログ用にと、踊り子さんたちのポラを撮らせてもらったので約束を果たすためにも頑張って書かないといけない。でもこのストリップ体験がかなり気分転換になったことは確かだった。

その次の週、代々木忠監督のザ・面接イベントがあって、花房観音と待ち合わせてロフトプラスワンに行く。そこにはいろいろな人たちが来ていてあいさつをした。特にライターの沢木毅彦さんにお近づきになれたのはとても嬉しかった。
イベント終了後は市原克也さんや松沢編集長などともご挨拶してお酒を飲んだりした。松ヘンさんとはちょっとしたAV談義ができてかなり刺激された。でも松沢さんとは今度は素面の時に会って話してみたいね。30分そこらじゃ、まだまだこの方の本音までたどり着けてないように思った。

あと今月は二村ヒトシ監督と3回も朝まで飲み明かした。
自分は二村さんについてはかなり批判的な部分もあるんだけど、それでも何時間も2人だけでしゃべっていられるということはその存在自体は受け入れてるということなのだろう。

自分は恋愛よりも友情の方が大事だと思う人間で、「心の穴を恋愛やセックスでしか埋めようとしないのはどうなのよ」って思ってもいる。だから二村さんの最初の『すべてはモテるためである』はそのままではくだらないと思っていて、それよりはまだ今年の3月に出した『恋とセックスで幸せになる秘密』の方がはるかにいいと思っているんだけど、それでも何か大事なことが語られていない気もするんだよね。
なにより二村さんは自分の中にいる「ヤリチン」とまだちゃんと向き合えてないと思うんだ。

どんな男の中にも「ヤリチン」要素はあるだろう。またそれがあるからこそ男はAVを見て興奮し、作品を作ることができるんだと思う。ヤリチン要素こそがエロ産業を成立させるもととなっているのではないか。
そして女の人にだって(「ヤリマン」ではなく)「ヤリチン」要素が潜んでいても不思議ではない。二村さんはかつて男の中にはモモレンジャーがいると書いていたけど、女の人の中にもタキシード仮面がいておかしくないはず。

だから二村さんには「今度はヤリチンについての本を出してよ」って言っておいた。
二村さんはちゃんと自分のことを語っていない。自分が知っている二村さんはあの本の中にはっきりとは出てこない。もちろんそういう本ではないからなんだけど、でも肝はやっぱり二村ヒトシのパーソナリティーだよ。そこにこそ二村ヒトシのAVの秘密があるんだから。
少なくても淫語魔は二村作品をそうやって分節化して見ている。だって作品と人格は密接不可分でしょ。実際に二村さんは認められたい人に作品を送るじゃない。
自分はもらったこといっぺんも無いけど。

二村さんについては今回ではなくもっと別の機会であらためて書きますよ。それなりの評論もしてみたいからね。

あとは花房観音だな。
彼女からはこんなメールがきている。

そうだ
ボヤキに私のこと書くとき、例えば、不倫してたとか相手の妻恨んでるとか嫉妬深いとか何でも書いていいよ。

花祀りはそういう話だし。

このあたりは彼女自身のブログに書いてあることなので何をいまさらって思ったりもするんだけど、おそらく彼女の言いたいことは遠慮するなってことなのだろう。
何を書いてもいいとお墨付きをもらったからなんでも書きますよ。自分じゃなきゃ書けないこともあるだろうからね。

彼女と自分の関係は「セックスでしか自分の空いた心を埋められない」と言う人間に対してのいい反証になるはず。昨年はまさにそのことを彼女に言い続けた一年だった。彼女も二村さんと近いものがあったからね。
もちろんセックスは必要ないとかそんなことを言っているのではない。恋愛やセックスが人生の華であることは間違いない。
でもそれだけで心の穴なんか絶対に埋まるはずがない。それを自分は昨年まさに証明して見せたんだ。

それと今月はすでに2回、太賀麻郎さんのうちに行った。東京にいながらなぜか被災している麻郎さんの家は、いろいろなものが倒れていて足の踏み場がなかった。それでも一歩踏み入れると、その足の下から竹下ゆかりのビデオだとか90年のオレ通とかが出てくる。自分からすればお宝である。しかもそれを見て麻郎さんが解説してくれる。それがまた面白い。
この人はずっとライブでしゃべらせておくべき。サービス精神が旺盛で聞けばなんでも答えてくれる。だからといって知ったかぶりはしない。
麻郎さんも自分にとっては居心地のいい人。これからもちょくちょく遊びに行く予定。

ほかにも今月は楽しい酒が多くって、いろんな友人・知人・初対面の人と飲んだり食べたりした。淫語魔として飲んだ人もいるし、中の人で飲んだりもしたけど、とにかく楽しかったなぁ。
この前も6時間ぐらいサシで酒を飲んだ人がいるのだけれど、好き勝手なことを言って笑ったり同情したり慰め合ったり、すごく気分がリフレッシュした。肝胆相照らすって言葉があるけれど、こういう人がいてくれるのは幸せなことだなぁとしみじみ思った。そこに上下関係があるとどちらかが我慢している可能性があるけど、そうじゃなく対等の関係でずっと話し続けられる人とのおしゃべりはセックスなんかよりも全然いいよ。
もちろんその人が異性ならオプションでセックスっていうのもありかもしれないが、あえてしないからいいというのもある。ましてやそれが同性ならゲイでない限りセックスはオプションにならないわけで、やはりそういった同性の友人がいるかどうかはいろんな意味で大きい。

たとえどんなにいい配偶者に恵まれても、あるいは聞き分けのいいセックスパートナーがいたとしても、そういう心の友がひとりもいない人は不幸でしょ。そんな人の自己肯定なんて泡沫のようなものだ。
これが「信者」だと心の友にはならんでしょう。心の友は決して支配されたりなんかしないからね。
所詮、自己肯定なんて幻想でしょ。残酷な現実の前では塵芥のようにすぐに吹き飛んでいっちまう。そのとき必要なのはセックスなわけないよね。

それからAVレビュー。ずっと言っているので書かなきゃなぁ。
みならいクンとなんともさん。これだけはなんとかしなきゃ。
工程表を作んなきゃか。GWで意地を見せるでやんす。
そんで、近々、引っ越すことになるなんともさんちに遊びに行ってAV談義をするでやんす。

コメント

うんこしたいよ! 肛門少女アナルル!

 「花祀り」は他の長編の怪談小説と併行して書いていて、官能も初めてだし、
 三人称も初めてだし、その時は、「自分」と突き放せて書けた! と思っていたんだけれども
 だいぶ加筆したのもあるけれど、改めて読むと、結局自分のこと(感情という点で)書いてんじゃんと思った。
 だけど次作のプロットを練ってても、根本の「表現したいこと」は自分の感情の中にある核みたいな部分を結局は書くしかないんだな、と。その折々で、「核」は多少形を変えるんだけど。
 だから、作品=作家だと今更ながら思った。
 そっから逃れられない……ことは無いけれど、自分にはそれしか出来ない。
 その上でエンターティメントになってりゃいいかということですね。

 4月は一週間の間に、団鬼六先生、代々木監督、中島貞夫監督と会うという壮絶な月だった。
 しかもこの3人、繋がってるし。


 男で埋まる穴は、まんこだけかもね!

うまくまとまらん

考えてみるとわしらは花を引き寄せてばかりいる。
桜ちゃんもその1人。

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