二村ヒトシ監督の淫語 なんなんだろうなぁ~で、その2 

  • [2006/10/11 22:34]

こんなのを見つけた。
二村監督のインタビュー。

「それと主観の痴女物というがあるけれど、あれは女優さんに対して『カメラに向かってこういう目つきをしてくれこういう淫語を言ってくれ』という世界だから、女の子にとってはひとつの業務になってしまうんです。
いわゆる一般的な痴女物と僕の作品は似てるという人がいるだろうし参考にする人もいるだろうけど、僕は別物だと考えてるんです。
と言うのは、それって女の子が男優さんのチンコを使ってパフォーマンスしてるだけで、僕はそこに本当のセックスは描かれてないと思うから。
結局のところ何をするか、どんなプレイをするかではなく、女の子がどれだけ本気になれるかどうかが大事なんです。
さらに、なぜ本気になってもらうかというと、別に女の子が本気になるドキュメントが見たいわけではなくて、女の子が僕に対して本気になってくれるというのが、僕の脳の中にある理想のセックスなんですね。
だから僕はそれをずっと追求してきた」ビデオメイトDXの2006年3月号

太字はこっちがつけたんだけど、一瞬、ああ、これかなぁ、と思った。

二村監督001
この間から言っている、「二村監督の淫語に対する自分のもどかしさ」の在処を探っているんだけどさぁ。
なんで二村作品は、この淫語マニアのおっさんの胸に、今ひとつ響いてこないときがあるのか。
自分は、この人を天才だと思ってんだよ。ブーブー言いながら見ちゃうんだから。映像的には最高。
好きな映像を撮ってくれる監督の1人ですよ。

だけど、なんでか、二村淫語は心に届かない。
その理由はひょっとして、二村監督の中にある主観もののイメージにヒントがあるんじゃないかと思った。

「チンコを使ってパフォーマンスしてる」っていう認識は、そこでの淫語パフォーマンスも同一線上のものと考えているわけだよね。

これは、逆に二村監督の淫語は女の子の裡から出ている言葉を大事にしようとしているということでもあるのかもしれない。
当人もどっかでそんなコメントを残していたし。

実際はドラマの進行上、画面に向かって淫語を吐かせることもあるんだろうけど、それは展開上のマークでしかなく、二村監督は、そういう感じの淫語にはあまり興味がないのかもしれない。
それよりも「本気になるドキュメント」は、まず女の子自身が自分の心に素直になったときにでる言葉が、結果として淫語だったら、それをエロいと考えるというような。

何度も言うけど、自分はそういう淫語も好きだ。
けど、それは淫語の1つのジャンルでしかない。

実は、この淫語AVマニュアルを作るときに、いろんな淫語の種類やパターンを分類して整理をしていた。それは、作品データが増えるたびに、バリエーションが増え、自分なりにはかなり細かくまとめられている。
だから、淫語は声の質とか、言い方だけではなく、いろんなパターンがあると自分は理解している。

そして、その細かくジャンル分けした淫語のパターンを意識しながら、作品を見ていくと、今まで見えてこなかった痴女像、特に主観での言葉のあり方を意識するようになった。

あえていうなら、現在、優れた主観痴女作品は二村監督の言うような「チンコを前にしたパフォーマンス」ではすでになくなってきている。
それはアウダースの「雌女・熟雌女」シリーズやFLAGMAN監督の「四畳半ファック」やKINGDOM監督の「痴女マンション」みたいな主観作品を見ていくとよくわかる。

特に今の「雌女」の充実度はどうだろう。「雌女」は確実に今までの主観痴女ものの枠を超え始めていると思う。

二村監督は、実際の女の子が好きな男のためにするパフォーマンスの部分を、捨象してしまってんじゃないだろうか。
だから、男を喜ばせようとする淫語の感じがうまく出せないんじゃないんだろうか?

見当はずれかなぁ。
でも二村監督の淫語に対する自分のこの不満は、その辺にあるんじゃないかととりあえず仮説を立てておく。

とにかく、好きな監督ではあるんだけど、何かが足りない、この気持ちの悪さを、自分ははっきりさせたくてしょうがないんだよね。