グチとボヤキはちがうよなぁ。 

  • [2007/11/12 00:16]

この間、『徒然草』を引いた流れで、佐藤春夫の『現代語訳 徒然草』を読んでいたんだけど、やはり一級の文学者が書く文章は違う。
『徒然草』の現代訳はネットでも猛者が挑戦しているけど格の違いを感じざるえない。これにくらべりゃ、自分の書いた訳なんてホント、大したことない。

ただ確かに文章はいいのだが穴がないわけでもない。
いくつかひっかかるところがある。

たとえば次の文章。

人間の心を惑わすものは、色情に越すものがない。人間の心というものは、aばかばかしいものだなあ。匂いなどは、仮りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知のうえでも、えも言われぬ匂いなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。
久米仙人が、洗濯していた女の脛の白いのを見て通力を失ったというのは(『今昔物語集』巻第十一にある)、まことに手足の膚の美しく肥え太っていたので、b外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。

『現代語訳 徒然草』河出文庫 2004

良い文章だ。ネットで転がっている現代語訳よりも名調子である。

問題は下線部aにある「ばかばかしい」という訳である。
原文では「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。a人の心は愚かなるものかな」となっている。
この「愚かなる」には確かに「ばかばかしい」という意味がある。
だが、ここはあえてそのまま「愚かなものだ」でよかったと思う。

「愚か」は、仏教では「貪り」「怒り」とともに煩悩の根源をなすものの1つだ。
仏の道理を信じられずすぐに道に踏み違える様を言う。
「愚癡(ぐち)」や「癡闇(ちあん)」なんて言い方もする。
「道理に暗い」と書く辞書もあるが、これを西洋的な主知主義で理解すると多分、間違う。道理に無知だから「おろか」なわけではない。

仏教はカルマの思想だ。たとえ道理を弁えていても過去世の業により、いつのまにか闇に迷い込むのだ。
仏教で説く愚かな人間というのは、わかっちゃいるけど辞められず、気がつくとまるで悪酔いしたように、理性を失ってしまう人を言う。
止められているのに酒を飲む。身を滅ぼすとわかっているのにギャンブルに手を出す。恋に血迷ってろくでもないヤツにひっかかる。
それが人間の根源的な煩悩。
そんな自分を発見して、そこから逃れようとしたら隠者にでもなるしかないだろう。

そもそも「色欲」を「色情」と訳しているのも微妙だったりする。
確かに「色欲」は「男女間の情欲のこと」を指しているのだが、仏教で言う「色」とは五感に直接、刺激するもののことだ。
「眼・鼻・耳・舌・触」といった五感を通して送り込まれるもの、具体的には「目に映るもの・匂い・音声・味・触り心地」といったものを「色法」といい、そこから起こる欲を「五欲」という。「色欲」というのはそのうちの眼に映るものに執着することだ。

「女(男)体」そのものに対する欲を「色欲」とするのは間違ってないが、自分は視覚的側面の意味合いが強い言葉だと思う。
修行僧が艶めかしい女性を見たら、その女性の皮膚の下にある白骨化した姿を思い浮かべ色欲を絶とうとする修業もあるぐらいだからね。

久米仙人が通力を失ったのは、天然自然の道理に迷ったからだ。
迷うきっかけは女の白いふくらはぎ。
洗濯をしているっていうんだから、ふくらはぎに水しぶきがかかって、水滴をはじく肌の質感が仙人の眼に強く映ったことだろう。
雲の上から目にとまるぐらいなんだから、空は晴れていて、強い日の光が女の白い肌をさらに白く浮き立たせていたかもしれない。

それから「b外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。」という訳もちょっと通じにくい。(原文では「外の色ならねば、さもあらんかし」 )
これはその直前にある、「女の服についた人工的な香の匂い」にもそそられるのだから、ましてや「ほかならぬ肉体そのもの」なら心が惑うのは当然、という意味であろう。

人は道に迷う。
特に色欲はつまずきの元である。
せっかく長い間、難行苦行の修業をして通力を会得しても、人肌を求める思いは止みがたく、ついつい色狂いをしてしまう。

でも兼好法師はそれが悪いと言っていない。
むしろその前の段では「色恋に惑わない人間はつまらない」とまで言っている。

万事に傑出していても、恋愛の趣きを解しない男は物足りない。玉で作られた杯に底がないような心もちのするものである。露や霜に濡れながら、当所(あてど)もなくうろつき歩いて、親の意見も世間の非難をもはばかっているだけの余裕がないほど、あちらにもこちらにも心定まらず苦しみながら、それでいてひとり寝の時が多く、寝ても熟睡の得られるというときもないというようなのが、おもしろいのである。そうかといって、まるで恋に溺れきっているというのではなく、女に軽蔑されているというのではないのが、理想的なところである。

『現代語訳 徒然草』河出文庫 2004

ウン。こっちの訳は悪くない。
直訳文なので文の調子がよくないのは仕方ないが、それでもさすが佐藤春夫である。
少しも旧さを感じさせない。

だけどこれいつ頃、訳したものなんだろうね。
河出文庫には特に書いていないんだけど。