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 2008年12月 

羞恥心には裏があります 

  • [2008/12/11 15:33]

裏マニュアルを作んなきゃとモニターの前に座るわけなんだけど、どうもすぐに脱線してしまう。
もともと趣味で作っているから切迫感が足りないってのもあるんだけど、このままじゃ年内中に終わんない。なんとか集中したいんだがダメなんだなぁ。

たとえばサイトの基調色を考えるとするでしょ。
裏マニュアルだからね。「裏にふさわしい色ってなんだろう?」って思うわけ。
ここがまず出発点。

「裏」があると言うことは「表」があるわけで、当然、うちの場合、表は「淫語AVマニュアル」。
こっちは白と赤がベースになっている。そこで単純に「反対色で作るか」なんて思う。
白の反対は黒。赤は緑。
黒と緑か、んー、まぁ悪くないかなぁ。

でもね。ここで気がつく。
ふつう「表と裏」って言った場合、「コインの裏表」みたいなリバーシブルな意味を思い浮かべるわな。でも裏ビデオの「裏」ってよくよく考えてみるとそういう意味じゃない。
「国内の正規ルートには流れてないもの」とか、場合によっては「不正に流通しているもの」なんかを言うわけでしょ。
つまりあまり「表立っては取り引きできないもの」を「裏」と呼ぶ。
「表をひっくり返して裏」じゃない。「表には出しづらいので裏」なんだ。

そこに思いいたって、反対色で表現するのは違うんじゃないかって思った。

んじゃどうしようと。

正規じゃないからうさんくさくするか。
似ているけど非なるものっていう意味で色を薄くして、枠線をぶっとくするとか。ちょっとニセセブンなんかを思い浮かべちゃったりして。何か巻いているとか、尖っているとか。

どこをだよ。

そんな1人つっこみを入れながらすぐに作業にかかればいいんだけどさ。
そのうちこのあいだ読んでいた本の気になった箇所を思い出しちゃって、それが「裏と表の話」につながって、想念が続く。

男を抱くということ男を抱くということ
(2001/04)
斎藤 綾子亀山 早苗

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カメ つまり、本来の自分を確認するための"癒し"の場を求めているのかもしれませんね。でも「羞恥心」というのは当然、どのカップルにも多少はあるはずで、それがなくなったら、恋愛自体の必然性もなくなっていくわけですよね。生活をともにしていない恋人同士なら、セックス自体はいつまでたってもある種の"非日常"であって、新鮮な羞恥心は保てるような気がするんですけど。

斎藤 お互い、社会的なものを持ち込んだときに、変な羞恥心が起こるんじゃないの? 純粋に、個人としての羞恥心なら、それは興奮剤になると思うけど。

南  そうね。セックスに関しては、社会的な刷り込みや、育つ過程で培われた思い込みが大きいわね。自分自身の身体に聞いているんじゃなくて、社会的な常識、通念で自分の身体をはかっている。例えば、「男はペニスしか感じないものなんだ」とか、「男が身体を愛撫されてよがるのは変だ」とか、そう言われ続けてきて。

斎藤綾子・南智子・亀山早苗『男を抱くということ』14p 飛鳥新社 2001.5.7

「カメ」って言うのは、ライターの亀山早苗のこと。
この話の直前で「男性が自分のセックスを相手にどう見られるか恐れる人が多いのはなぜか」という問いが設けられ、「男は恋人とのセックスに社会的な自分を持ち込みすぎている」って話になってこの箇所になる。

「んん?!」って思ったのはこの「羞恥心」のことなんだけど、心理学とかで説明される羞恥心って、たとえばこの↓本だと個人が社会(この本の中では世間の目)を意識することで生まれるなんて考えられている。

羞恥心はどこへ消えた? (光文社新書)羞恥心はどこへ消えた? (光文社新書)
(2005/11/16)
菅原 健介

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人間がここまで力を持ち得たのは「人間社会」を高度に発達させたからだ。
社会性をじゅうぶん身につけることで人は大人、すなわち「ヒトとしての成体」になる。逆に社会性を持たなければ食い扶持をえることも困難になる。
したがって社会から孤立するということは、ヒトという個体の生物としてはもっとも危険な状態ともいえる。

この本によれば「羞恥心」というのは、「社会から浮いた存在になること」を回避するセンサーの役目をはたすらしい。
「恥ずかしい」という感情は、その人が思う社会通念から多少なりとも逸脱する状態になったときに起こる。つまり「オマエ、周囲から少しズレているみたいだから、ちょっと調整した方がいいんじゃないの?」っていう信号が送られる。それによって社会との協調をはかるきっかけにするわけだ。

これ、なかなか面白い本だったんだけど、自分は一点だけ気になったことがあった。
確かに日常生活を送るうえで「羞恥心」は社会規範と個人の行動の微調整をはたすのかもしれないが、それならなぜ一方で、それが「性的興奮」を生んだりするんだろうか?

そんなことが気になってたもんだから、斎藤綾子が「お互い、社会的なものを持ち込んだときに、変な羞恥心が起こるんじゃないの? 純粋に、個人としての羞恥心なら、それは興奮剤になると思うけど。」という発言にひっかかったんだ。

羞恥心に社会的と個人的があるものなのか?

でも、言っている意味はわかるので、もう少し自分なりに言葉の言い換えが必要だなぁなんて思っていた。

そこでさっきの裏と表の関係を思い合わせたときに、斎藤の言葉をうまく補足できたように思えたんだ。

要は「場の転換」で羞恥心の持つ意味が変わるってことなんじゃないか。
つまり「羞恥心」にも裏と表があるんだ。
そしてそれは観察者の立ち位置で決まる。

基本的に性的空間というのは人目を憚るもの。「非日常」なわけ。
当然それは、社会的な制約から解き放たれている空間。社会的なものが無効化されている聖域で、理想を言えばジェンダーすらもないといえるかもしれない。

たとえばSMにしてもあれはお互い了解した上での性的暴力なわけで、了解してなければ単なる性犯罪。
セクハラも公の場所で誰彼かまわずやると問題化するが、自分の恋人ならプレイの一種となる。
もっとも恋人だからといってその行為を了解するとは限らないわけで、そこもやはりコミュニケーションスキルが要求される。セックスするにはまず社会性がないとダメってことだね。

その了解事項の元で、社会の呪縛が溶解する刹那「羞恥心」が芽生える。通常それは制御を求めるわけだが、性的空間は社会的な従属から逸脱してもいいので、そのブレーキをとっぱらい、安心して相手に身をゆだね、肉欲のみを貪り尽くすことも可能。そこにエロティシズムがあるのではないか。
「羞恥心」から性的興奮を引き出されるのは、そういう社会的な自我の崩壊が行われるからなのだろう。
だから自分なんか「貞淑な人妻がそんな淫語を!」みたいなことで萌えるんだろうね。

まぁこのあたりは代々忠も言っていることではあるけど。

プラトニック・アニマル―SEXの新しい快感基準 (幻冬舎アウトロー文庫)プラトニック・アニマル―SEXの新しい快感基準 (幻冬舎アウトロー文庫)
(1999/12)
代々木 忠

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 人間は理性に基づく<制度の世界>と<本音の世界>に生きている。学校や会社や国家は制度の世界に属しているが、SEXとは本音の世界のものだから、「かくあらねばならぬ」という制度のよろいかぶとをどこまで脱げるか、自分の価値観や固定観念をどこまで捨てられるかが重要になってくる。
 本当は捨てたくても、捨てようとしたとき、人からどう思われるだろうかという自意識が邪魔をする。だがそれは、本音の世界に制度の世界の価値観や固定観念を持ち込んでいるということである。

代々木忠『プラトニック・アニマル』53p 情報センター出版局 1992.5.4

しかしこのおっちゃんの本を読むたびに思うんだけどさ、この人より年若いAV監督で、この人なみにセックスに向き合い、求道している人ってまず見ないよね。
この点に関しては誰もヨヨチューを越えられないみたいだ。

ということで。

こーんな感じでいろいろ思考がさまよっているうちに、気づけば今日もまた裏マニュアルのサイトの色が決まらないんですよ。
そして明日へ持ち越しなんですね。

なーに、やってんだろうね。