たまに混線していることもある 

  • [2010/02/15 22:33]

最初に読んだときはよくわからなかったんだけど、この年になってあらためて読むと本当にその通りだなぁと思う芥川龍之介の言葉。

 西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月巴里(パリ)にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。
 ルノアルの言つた言葉に、「()を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。
 世人とは常にかう云ふものである。

芥川龍之介『澄江堂雑記』

これってオスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」ってのと同じとみていいんだろう。

要するに表現するヤツは古典を読まないとダメってこと。
大体、言葉って言うのは先人の脳みその中を通って形成されているもので、美的感覚というのはそういう文化の蓄積にあるわけ。
それは音楽だって同じ。

この年になってわかってきたことは、結局、人生を人一倍を楽しむには、それまで何を読み、何を聴き、何を視てきたかってことらしい。
偏ったものしか読んでこなかったヤツは、偏ったモノの見方しかできない。
したがって楽しむべき信号も、アンテナが摩耗していて拾えず、感興をそそるスイッチがぶっ壊れていて、つまんないところに反応していたりする。そして大味なものしか楽しめなくなる。
AVを見ててもそれは感じる。

最近自分は、作品から漏れるノイズばかりをかき集めて、ああだこうだ考えるようなことばかりしている。
気になるのは作家が伝えようとしてる信号ではなくて、意図せず出されているノイズの方。
そのままではなんてことないただの雑音なんだけど、それらをかき集めて線を引いてみると、何かの画が見えてくることがある。
それはまったくの見当違いってこともあるけど、そういう隠された何かを見つけるのは楽しい。

だけど作品はいいんだけど、これを直接人にやると激しくイラつかれることがある。
この間もある女性にキレられちゃってさ。「何が聞きたいんだ!」って言われちゃいました。
ここんところ、いろんな人に怒られてばかりいるんだよね。自分の他愛のない好奇心というのは、どうも人を傷つけることが大いにあるようで気をつけないといけない。

とりあえず最近は、危ない方向に話がいったなぁと思ったら、オヤジギャグかエロに方向転換するようにしている。うまくいった場合、これで切り抜けられることがよくある。
オヤジギャグというのは意外とバカにできないよ。
大賀麻郎を手本にしようとしてるんだけどね。なかなか難しい。

ただこれ、相手を選ぶんだよねぇ。
下手するとかえって火に油を注いだりして。

最近、淫語魔は弾薬庫の廻りばかりをうろついているらしい。