入り捌け表を作って書いていたなぁ。 

どうにかこうにか明日のアップ分ができた。
データ自体は前に採っていたんでさくさくと出来た。あとは明日、更新作業の時間をうまく捻出しないとな。最近、昼間、忙しいんだよね~。


自分は昔、素人芝居の戯曲を書いていたことがある。
芝居をやっていた友人の知り合いに書いてみないかと言われた。
といっても、芝居青年の彼もはなから自分に期待していたわけではなかった。たまたま台本に行き詰まっていて、目の前に趣味で小説を書いているらしい人間がいた。初対面に近かった。その人間に書けっていうんだから、そんなに本気ではなかったのかもしれない。

こっちも軽い気持ちだった。
戯曲なんて小説よりも簡単だろうと思っていた。
そもそも会話文だけで進行するんだから文章を凝ることもない。要はプロットができりゃ、あっという間に書き上がるだろう。楽勝だ。そう思っていた。
ところがいざ書いてみるとだいぶ勝手が違う。

まず最初に悩んだのは場の設定。
小説の場合たいてい登場人物にそって描写されていく。登場人物が移動すれば描かれるべき場も移動し、登場人物が回想すれば描かれるべき場も過去を遡ることになる。語られる視点が複数の人物だった場合、パラレルな空間を行ったり来たりすることになる。つまり設定される場、描かれるべき空間は人ごとに存在する。
まず最初に人物ありきなのだ。

ところが舞台は逆だ。まず固定化された空間があって、その中を人が出たり入ったりして進行する。あくまでも場が主体なのだ。場があって初めて人がいる。
当然、小説のように一人称視点も三人称視点もない。あえて視点と呼べるものがあるとすればそれは観客の視点。板の上で繰り広げられる事件を見ている人たちこそがこの話の視点ということになる。観客はただ見ているのではなく間接的に参加しているともいえる。
だから場の設定というのはとても大事なのだ。

さらに舞台というのはそう何度も場面転換ができない。自分が知人に言われたのは90分の3幕モノ。それ以上は増やすなと。
しかも主要登場人物も人数があらかた決まっていた。役者を公募して興行するわけじゃない。好きで芝居しているんだから当然だ。

次に苦労したのは会話文。
演劇というのは全部、台詞で説明しないといけない。
背景や場所の説明、登場人物の社会的身分にそれぞれの情況。
当たり前のことだが説明口調の台詞なんて許されるわけがない。
登場人物のさりげない会話だけで、必要な情報を観客に伝えないといけない。

おそらくこういったことは小説や映像の台本では決して味わえない苦労だろう。
いい戯曲というのは台詞が綿密に計算されている。

そういう苦労の末、どうにかこうにか書き上げた。
最初にしては意外とよくできていたのか、すんなりそれで行こうってことになった。
芝居の稽古が始まり演技がつけられ、本の段階では曖昧だった舞台装置も形となっていった。
自分の書いたものが目の前に現れていく。
不自然でないか笑いをとるところはちゃんととれてるか。そんなことが気になった。
ねらい通りいったり、予期してないところで存外の効果を得られて、そこを褒められたり。
モノを作る楽しみというのは作品そのものが完成した喜びもさることながら、それによって人が楽しんでくれたり感動してくれたりする。そのことが何よりうれしい。
それは創作意欲の源泉だ。
金のためだけではモノは作れないだろう。やはりまず創作意欲がわくかどうかだ。

自分が戯曲を書いてよかったと思うのは観客の目を意識できたこと。
観客とは絶対他者。自分本位な論理は一切通用しない。
小説を書いているときは身内に見せたことはあっても、まるきりの他人に見せたことはなかった。所詮は自己満足の世界。
だから芝居の台本は苦しかったがその分楽しみも大きかった。

今、ときどき思う。
果たしてあの時のようなことが今の自分にできるだろうか?
自分に物語を生み出す力は残っているのか?
そもそも創作意欲が自分にあるのか?

だから自分は物語を紡ぐ人間をリスペクトする。
と同時に雑な仕事には腹を立てる。向上心のない制作者にはクソを投げつけたくなる。
たとえそれがヌキ目的のAVであったとしても、物語を作ると言うことはそれだけ崇高なことだと自分は思っている。

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