汝は心優しきエゴイストなり 

今日、アップしてしまえば久しぶりの週3ペースなんだけど、急用が入ったので明日アップしようかと思う。
ただ明日も外出することになっているんで、たぶん朝か夕方になるかな。

今週、データを上げた「最オナ」だけど、新作の白石さゆりさんの方は、先祖返りした感じで悪くはなかった。
だけどこれはもとにもどっただけで、このままでは一部のファンしか通用しそうにない。
熟女要素が加わったことでファン層を広げられるのか、それともせっかく熟女ファンを引きつけたもののやはりアングルが同じでつまらんとなってしまうのか。

シリーズもんって、結局続けていくとルーティンワーク化していくか、逆に本来のコンセプトから逸脱しておかしくなっていくかのどちらかになりがちだよねぇ。
ルーティンワーク化していけばおざなりの仕事に見えちゃうし、逸脱していけばそれは従来のファンへの裏切り行為にもなりかねない。

事実、「最オナ」は淫語ファンをしだいに裏切りだしていって、自分みたいに見切りをつけられちゃったのが結構いたようだ。
たぶん淫語以外の要素でもそういうところがあったと思うよ。

自分がシリーズものに求めているのは完成度。

丸山真男の言葉に、

 日本が停滞的なのは、日本人があまりに時々刻々の変化を好むからである。日本にある種の伝統が根強いのは、日本人があまりにも新しがりだからである。日本人が新しがりなのは、現在手にしているものにふくまれている可能性を利用する能力にとぼしいからである。目に見える対象のなかから新たなものを読みとって行く想像力が足りないからである。したがって変化は自発性と自然成長性にとぼしく、つねに上からもしくは外部から課せられる。(注・原文では「太字」は文字横に点)

(丸山真男『自己内対話』みすず書房 1998.2.24 247p)

っていうのがあるんだけど、AVにもそれが言えていて、たとえば二村作品なんか発想は非凡なものがあるんだけど、いつも完成度が低いまま推移していって、そのうちいつのまにか作られなくなっちゃう。
まるで子どもが新しいおもちゃを手に入れて喜んでんだけど、やがて飽きてぶん投げられちゃって、あんだけ遊んでいたのにどうしたの?ってな感じになっちゃう。

AVやっている人たちって「内観する力が乏しいのか」と思うことがある。
内容がどんどんハードになったり、新しい要素を付け足したりしていくのはいいけど、まず自分たちが作ったものをどこまでも追求してほしいんだよね。どうもねぇ、こらえ性がないというかなんというか。
一度、作った作品はもう二度と見ないのかねぇ。見れば今度はこうしようとかああしようとか思って何度も挑戦すると思うんだが。
「この女優」を「このシリーズ」でっていうのはあるみたいだけど、ここをこういう感じで掘り下げようっていうのが薄く感じる。

自分からすると、そういう粘着性があまり見られないので、「この人、自分で言っているわりには根っからのナルシストじゃないんだろうなぁ」って思う。
本当のナルシストなら自分の作ったものにもっとこだわると思うんだけれど。
女性が自分の分身をこだわるように。

それでもこの人の場合、その着想だけで戦ってきているからすごいんだろうけど。
まぁなんにせよ、もったいない話ではあるよ。

それとも自分が貧乏性なだけか?

コメント

作り手からすると「たかがAV」なんじゃないでしょうかね。
「されど」の部分で作ってる人なんて、そういないんじゃないかな。
最近は富にそう思います。

私は「職人」が好きなんですよね

「されど」と言って発信している人はいるんですけど、どうも目先の変化に流れているように見えちゃう。

私はストーリーはベタでもかまわないのです。
落語や歌舞伎は話のスジ自体最初からわかっています。それでも見に行くのはなぜなのか。しかも同じ人の出し物を見に行ったりするんですからね。

いずれにしろ私はAVの電撃ネットワーク化はついていけません。もしS1までそういう流れになったら見るものがホントになくなっちゃう。
まぁないでしょうけど。
でも極端なんですよねえ。こういのうって。

それとメーカーは早く淘汰されてほしい。
ありすぎて買うのが難しい。

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