男のコ描写なら吉田秋生の方がはるかに優れている。
- [2008/07/03 12:50]
「ハリー・ポッターシリーズ」を読み進めていったら、途中からどうもこのハリーって少年を好きになれなくなって読むペースが落ちてしまった。
なんでこの子は自分にまつわることにしか興味がないんだろう?
この時期の男の子って、もっとモノにこだわったり、ヘンテコなことに忠誠を立てたりして、自ら望んでストイックだったりするはずなんだけど、このハリーって子はどうもそういうのが見あたらない。
彼の関心事はいつも自分を中心にした世界ばかり。
しかもすぐ群れたがる。確かに男のコにとって仲間は大事だが、もっと関係はドライだ。ここまで相手に対してどん欲な男のコはそうそういないと思う。
よく言えば人に対する愛情が深い。でも普通はここまで強く自分への愛情を求めたりしない。
これがハリーだけなら特殊な家庭環境に育ったということで納得もできるが、ハリーの親友のロンもそのあたりは似ていて、読んでいて少し気持ち悪い。
もしも現実にこういう男のコが目の前にいたら、淫語魔少年はまず敬遠するだろう。
あるいはもし自分がこの子の父親だったら、このままではマズいとキャンプにでも連れて行って、夜空にまたたく星を背景に、男のロマンについて語り込んじゃうかもしれない。
読んでいてムカムカして、何度、ハリー君に説教たれたくなったか。
ってそんなことを思いながら、つっかえつっかえ読んでいたんだけど、ようやくあることに気がついた。
この作者のローリングって、女性なんだね。この人、男のコってものがよくわかってないんじゃないだろうか?
思春期の男のコと女のコは全然違う生き物だ。そんなのは少年マンガと少女マンガを読み較べれば明らかなこと。
ところがローリングはそれがちゃんと書き分けられていない。
実際、自分が気持ち悪く感じだしたのは上下巻が出始めた第4巻以降。3巻目ぐらいまでは話もコンパクトで、あまり引っかかるところもなくさくさく読めた。でも4巻目あたりからやたらいろんなことを書き込むようになり、あまり気にならなかった傷が目立つようになった。
ローリングの男のコに対する認識はかなりお粗末だと思う。
ハリー・ポッターが女の子だったらまったく違和感がなかったろう。
自分の知っている思春期の女のコたちもこんな風に激しく心が動きまくっている。
でもハリーは女のコじゃない。男のコなのに中身が女のコだから気持ち悪く感じてしまうんだ。
最近、春先にちょっとだけ親しくなった高校生の子たちから、またもやクラブの合宿チラシの手伝いを頼まれたんだけど、5年ぐらい前に買ったプリンタがいよいよぶっ壊れてしまったので、新しいのに買い換えた。
キヤノンのMP610。
先週の日曜日に買ってきたんだけど、いやぁ時代は進歩しているね。
打ち出しは早いは、5色インクなのにやたらキレイだわ。
子どもたちの評判もいい。
ただ春にも感じたけど、この子たちと長くつきあうのはホント疲れるわ。
思春期のコたちを野放し状態にして一緒にいるとヘンな風にテンションが上がるので、どうも寝つきが悪い。クラシックを聞いて気持ちを落ち着けたり、ちょっと酒を引っかけてから寝たりしてみた。
自分にはガッコのセンセとか無理だ。酒浸りになるかもしれん。
それでふと思った。
自分がこれぐらいの女のコを主人公にして物語を書いたとしたら、女性が読んでも違和感のないものが書けるだろうか? 果たしてどこまで現実味のある心理描写ができるものなのか?
表面上をなぞることはできると思う。でも心の奥に深く分け入って、あの目まぐるしく揺れ動く女のコ特有の自意識を表現するのは至難の業のような気がする。
結局、少し距離をとった視点で書くことになるだろう。
創作において距離感というのはとても大事だ。
それは映像でも一緒のはず。
さて、ようやくハリー・ポッターも読み終えたので今日こそ更新作業をするつもり。
データはほぼ取り終えているから、あとは作るだけだ。
それと質のいい関西淫語作品も見つけたよ。懐かしい感じのするデートものだけど。
今月こそはペースを上げたいね。
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うちのヌコさんは元気になりましたよ。
- [2008/04/18 23:26]
別にうちの猫が安静状態なので、それにつきあったわけじゃないんだけど、なぜかAVを見る気が起きなかった。
そもそも別にAVを絶対見なきゃいけないわけじゃないんだから、ボチボチやっていくつもりではあったんだけど、ここまで見ない日が続くのも珍しい。
何度かデータを取るためにDVDをかけてみるんだけど、どうも集中できない。いいかげん、これではマズいので今日はなんとか作ったけど、なかなかエロモードにはならなかった。
ひょっとしたら、今、読んでいる本の影響かもしれない。
ここんところずっと江戸時代の紀行文を読んでいて、ついこの間まで読んでいたのは太田南畝の『調布日記』。蜀山人がお勤めで多摩一体をウロウロして、そこで見聞したものを自筆の絵入りで解説してあったりする本ね。
太田蜀山人というのは今で言えばそれなりのポストに就いている公務員で、余暇に狂歌や小説をたしなんでいるようなヤツだよね。今回、読んでいて「ホント、物好きなおっさんだなぁ」と思った。
それで今、読んでいるのは『北越雪譜』。
はじめて読んだんだけど、これがなかなか面白い。天保年間にベストセラーになったらしいけど、内容は要するに雪国・越後塩沢の風俗や説話なんかを巧みな挿絵入りで紹介した本。
北越雪譜 (ワイド版岩波文庫)
(1991/12)
京山人 百樹、岡田 武松 他
商品詳細を見る
雪の結晶だとか雪国ならではの民具とか、あと亀の化石に即身仏なんてものまで詳細な絵入りで説明されている。物好きな江戸の町人が食いつきそうな話だ。
んで、ついついこういう世界に熱中してしまったんだけど、この手の本を読むときは、いろいろ身にまとって異世界に入り込まなくてはならないから、エロっていう感じになれないんだな。
さっき頑張ってデータ取りしながらAV見てみたんだけどさ。今回はいっぺんもゴニョゴニョする気にはなれんかった。
もちろん、買った当初はちゃんとおかずにしていたヤツなんで、作品的にエロくないわけじゃないよ。
ただねぇ、明日UPする乃亜&里子さんのダブルドリームなんだけど今ひとつ不安なんだな。
今回あらためて鑑賞したら、なぜかレズシーンのところが一番よく感じたんだよね。
「ああこういうレズなら自分は好きかも」って思っちゃったわけですよ。
そんなことを思っちゃうところが「淫語魔的AV鑑賞の常態」じゃない気もして、これでいいんだろうかと。
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風に訊いてみた
- [2008/03/12 23:58]
んとねぇ。なんかねぇ。先週の週末ぐらいからやたらのどが痛くなってね。のどにさらしとか巻いてしばらく過ごしておった。
どうやら花粉症で炎症を起こしているところにもってきて、バイ菌がはいったらしくて、結局、あんまりひどいので病院に行って抗生物質を飲んでようやく収まった。
なんか今年は年頭からずっと病院に行っているような気がする。運動不足がたたって免疫力が堕ちているんだろうなぁ。少し、歩くように心がけよう。
ちょっと滞りがちだったけど、明日は五十川さんの熟雌女をUPする。
そのあとはリコピン&乃亜さんのダブルドリームあたりかアロマの何かにしようと思っちょります。
来週の金曜日はサイトの2周年目を迎えるんね。それまでサイトの模様替えをしたいと思っとるんだけど、今年は例年以上に忙しくて、なかなかまとまった時間がとれない。
まぁ、ぼちぼちやりますか。
さっき読んでいた開高健の『風に訊け』にこんな文章があった。
芥川龍之介が作品、『侏儒の言葉』の中で「文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ」と書いていますが、先生の魂の奥底にはどんな野蛮人が住んでいるのでしょうか。
(宮城県苅田郡 野蛮人)魂に奥底があるのかないのか、それが問題だ。魂に奥底があるのならば、ひょっとしたら私ものぞくことができるかもしれないが、そして野蛮人がいるかいないかも君に語ってあげることができるかもしれないが、魂には奥底がないはずのものと私には思えるので、野蛮人が住んでいるのか、文明人が住んでいるのか、それすらもわからない。芥川龍之介が「魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ」といったのは、自分の中に野蛮人がいず、それを頼りにすることができなかったので願望としてそれを語ったのであろうと思われる。
しかし、芥川龍之介と同じように繊細で、苦しみ抜いて此の世を去っていったアメリカの作家の一人にエドガー・アラン・ポーという人物がいる。この人物は似たことについてこういうことを書いている。「真の告白をしてみようと思ってペンをとってみたまえ。そのペンの下でたちまち紙は火を吹いて燃え尽きてしまうだろう」――こういうことなんだ。魂の仕業にはとめどないものがある。頂上も奥底もあるのかないのか。あり、かつないようにも思われるし、永遠の謎である。だからこそ文学が、芸術が求められるのだが、何十冊、何千冊、何百万冊小説が書かれても、なおかつ人は小説は書き続けていくだろうし、音楽をつくり続けていくだろう。そして読み続ける人があり、聴きつづける人があるだろう。それは魂に奥底がないからである。いや、あるからである。いや、ないからである。いや、あるからか。
(開高健「魂の野蛮人」『風に訊け』集英社文庫1986.6.25)
つい最近、これと全く似たようなことを、ある人のメールに書いたばかりだったので驚いた。上野千鶴子の本を読み返したときも思ったけど、若い頃に読んでいた本って意外と血肉になっているもんなんだね。
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エドガー・アラン・ポーっていうのは日本では『黒猫』とか『モルグ街の殺人』とかで有名な作家だけど、アメリカじゃホイットマンと肩を並べる大詩人。アメリカ人は小学校で必ずポーの代表作である『大鴉』という詩を勉強するらしい。
なので、普段、詩などを読まないような人間も、ポーの詩だけは覚えていたりする。
若いうちに、できるだけたくさん本は読んでおいた方がいいということか。
そういえばあの『欲望という名の電車』に乗ってきたブランチも、ポーの表現力を絶賛する場面があったよね。あれは英語教師だったからだろう。
紙をも焼き尽くすような「真の告白」。
そういう文章に出会うとそれに共鳴してこちらの魂が揺さぶられる。
心が打ち震える。そして祝福が訪れる。
そんな芸当ができる作家こそホンモノといえるのだ。
見てくれの文体じゃない。
友よ。そういうことだ。
その答えは風に吹かれている。
久しぶりに『夏の闇』でも読んでみるかな。
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宇宙は大変だっ!
- [2008/02/27 23:58]
明日のUPするデータがようやくできた。
最近、更新できなかったのはほかに用事があるからっていうのもあるけど、サイトの模様替えも考えていてそれでああだこうだやっているせいもある。
ちょっといい加減、色味も赤いのには飽きてきたし、デザイン自体もGIF画像多用でオシャレな感じにしたいなぁとか思ったりしちゃったんだな。
んで、まあいろいろ何かできることはないかと考えていたりしている。
ひょっとしたらHTMLを1から書き直すことになるのかもしれない。
そんなことも関係しているのか、今、読んでいる本は思いっきり理系の本。
どこかで文系の頭を理系に切り換えたがっているのかもしれない。
![]() | ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く (2007/06) リサ・ランドール 商品詳細を見る |
自分の場合、ときどき無性に数学や物理の本を読みたくなるときがある。
特に宇宙に関する本は、少々、難しくても読んでしまう。これってなんだろうなぁと思うんだけど。
自分たちの世代って子どもの頃に「宇宙戦艦ヤマト」が放映されて、中学ぐらいで「STAR WARS」に出会う。
自分は再上映で「2001年 宇宙の旅」を見た感動は今でも忘れない。有楽町のテアトル東京。あのでっかいスクリーンに無機質な宇宙が広がる。
知識も、光の速度より早くは飛べないとか、「ワープ」「スペース・コロニー」とかの言葉を覚え、アニメだと「ガンダム」や「マクロス」などでロボットは宇宙に出て活躍するようになる。
マンガも宇宙を舞台にした話が増えた。ただなぜか女性マンガ家が書くことが多かった気もするが。
あと高千穂遥の小説。「ダーティーペア」とか「クラッシャージョウ」は貪るように読んだ。自分の場合、子どもの頃から眉村卓が好きだったから「滅びざるもの」なんか感動したなぁ。
高校生の頃のスペースシャトルの実験も大きい。
深夜に放送になる打ち上げの瞬間をわくわくしながら見ていた。
その頃になると海外のSF小説。ハインラインとかクラークとか、ローダンシリーズも読んでたな。
まぁ、そんな感じで自分たちの世代は、宇宙には興味を持たざる得ない時代性があったと思うんだけど、その中でも専門書を読むきっかけになっているのは、カール・セーガンの『コスモス』だった。
テレビで放映されたときは日本IBMの「一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量、大数」という数字の単位を読み上げるCMとともに、相対性理論だとか、膨張宇宙論だとか、ビッグバンだとかそういうのをすり込まれた。
それからしばらくして、安楽椅子探偵みたいな天才科学者ホーキングが登場し『ホーキング、宇宙を語る』がベストセラーになる。
んで、この『ワープする宇宙』って本だけど、そういう流れで読んできた人間が読むぶんにはとても面白い本だと思う。
「多次元空間」について書かれているんだけど、「私たちは宇宙の中心にいるのではないとコペルニクスが言って世界を揺るがせたのは五〇〇年前のことだが、じつは私たちは宇宙の中心にいないだけでなく、宇宙のほかの部分と隔絶した三次元空間に住んでいるにすぎず、その隣には高次元宇宙が広がっているのかもしれない」(16p)なんてことを書いてくれちゃったりしている。
ホーキングもそうだったけど、この人たちはいつも物騒な真実をすました顔で言い放つ。でも宇宙の話には、ちっぽけなオレ様感覚を覆してくれるような清々しさがある。
だから宇宙を語る人の挑発は常に心地いい。
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グチとボヤキはちがうよなぁ。
- [2007/11/12 00:16]
この間、『徒然草』を引いた流れで、佐藤春夫の『現代語訳 徒然草』を読んでいたんだけど、やはり一級の文学者が書く文章は違う。
『徒然草』の現代訳はネットでも猛者が挑戦しているけど格の違いを感じざるえない。これにくらべりゃ、自分の書いた訳なんてホント、大したことない。
ただ確かに文章はいいのだが穴がないわけでもない。
いくつかひっかかるところがある。
たとえば次の文章。
八
人間の心を惑わすものは、色情に越すものがない。人間の心というものは、aばかばかしいものだなあ。匂いなどは、仮りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知のうえでも、えも言われぬ匂いなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。
久米仙人が、洗濯していた女の脛の白いのを見て通力を失ったというのは(『今昔物語集』巻第十一にある)、まことに手足の膚の美しく肥え太っていたので、b外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。『現代語訳 徒然草』河出文庫 2004
良い文章だ。ネットで転がっている現代語訳よりも名調子である。
問題は下線部aにある「ばかばかしい」という訳である。
原文では「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。a人の心は愚かなるものかな」となっている。
この「愚かなる」には確かに「ばかばかしい」という意味がある。
だが、ここはあえてそのまま「愚かなものだ」でよかったと思う。
「愚か」は、仏教では「貪り」「怒り」とともに煩悩の根源をなすものの1つだ。
仏の道理を信じられずすぐに道に踏み違える様を言う。
「愚癡(ぐち)」や「癡闇(ちあん)」なんて言い方もする。
「道理に暗い」と書く辞書もあるが、これを西洋的な主知主義で理解すると多分、間違う。道理に無知だから「おろか」なわけではない。
仏教はカルマの思想だ。たとえ道理を弁えていても過去世の業により、いつのまにか闇に迷い込むのだ。
仏教で説く愚かな人間というのは、わかっちゃいるけど辞められず、気がつくとまるで悪酔いしたように、理性を失ってしまう人を言う。
止められているのに酒を飲む。身を滅ぼすとわかっているのにギャンブルに手を出す。恋に血迷ってろくでもないヤツにひっかかる。
それが人間の根源的な煩悩。
そんな自分を発見して、そこから逃れようとしたら隠者にでもなるしかないだろう。
そもそも「色欲」を「色情」と訳しているのも微妙だったりする。
確かに「色欲」は「男女間の情欲のこと」を指しているのだが、仏教で言う「色」とは五感に直接、刺激するもののことだ。
「眼・鼻・耳・舌・触」といった五感を通して送り込まれるもの、具体的には「目に映るもの・匂い・音声・味・触り心地」といったものを「色法」といい、そこから起こる欲を「五欲」という。「色欲」というのはそのうちの眼に映るものに執着することだ。
「女(男)体」そのものに対する欲を「色欲」とするのは間違ってないが、自分は視覚的側面の意味合いが強い言葉だと思う。
修行僧が艶めかしい女性を見たら、その女性の皮膚の下にある白骨化した姿を思い浮かべ色欲を絶とうとする修業もあるぐらいだからね。
久米仙人が通力を失ったのは、天然自然の道理に迷ったからだ。
迷うきっかけは女の白いふくらはぎ。
洗濯をしているっていうんだから、ふくらはぎに水しぶきがかかって、水滴をはじく肌の質感が仙人の眼に強く映ったことだろう。
雲の上から目にとまるぐらいなんだから、空は晴れていて、強い日の光が女の白い肌をさらに白く浮き立たせていたかもしれない。
それから「b外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。」という訳もちょっと通じにくい。(原文では「外の色ならねば、さもあらんかし」 )
これはその直前にある、「女の服についた人工的な香の匂い」にもそそられるのだから、ましてや「ほかならぬ肉体そのもの」なら心が惑うのは当然、という意味であろう。
人は道に迷う。
特に色欲はつまずきの元である。
せっかく長い間、難行苦行の修業をして通力を会得しても、人肌を求める思いは止みがたく、ついつい色狂いをしてしまう。
でも兼好法師はそれが悪いと言っていない。
むしろその前の段では「色恋に惑わない人間はつまらない」とまで言っている。
三
万事に傑出していても、恋愛の趣きを解しない男は物足りない。玉で作られた杯に底がないような心もちのするものである。露や霜に濡れながら、当所(あてど)もなくうろつき歩いて、親の意見も世間の非難をもはばかっているだけの余裕がないほど、あちらにもこちらにも心定まらず苦しみながら、それでいてひとり寝の時が多く、寝ても熟睡の得られるというときもないというようなのが、おもしろいのである。そうかといって、まるで恋に溺れきっているというのではなく、女に軽蔑されているというのではないのが、理想的なところである。
『現代語訳 徒然草』河出文庫 2004
ウン。こっちの訳は悪くない。
直訳文なので文の調子がよくないのは仕方ないが、それでもさすが佐藤春夫である。
少しも旧さを感じさせない。
だけどこれいつ頃、訳したものなんだろうね。
河出文庫には特に書いていないんだけど。
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感動した
ありがとう名無し@ボヤキスポンサーサイトがうざいので更新は必ずするつもりです。
今年はようやく淫語魔に戻れるんじゃないかと思っています。淫語魔ものすごく勝手なイメージなんだけどね山下さんの印象は、エロ仙人ですかねー。淫語魔「名前のない女たち」AVレビューどうなっているんですかねー。今度、ナカムラさんに聞いてみます。淫語魔