妙適清浄の句は… 

  • [2007/09/10 22:25]

今日は自分の思考を整理するためにも、なんとなく書いてみる。
読者不在の文章になるかもしれないけど、もともと「ボヤキの小窓」は管理人が好き勝手なことを書くスペースなのでいいだろう。

というのも代々木忠の『プラトニック・アニマル』である。
この間も書いたけど、これ、体系的に理解しようとするとかなりの綻びがある。
理論化するのにいろんな理屈を引っ張ってきてチャンポン状態になっているのが原因だと思う。

結論から言うとチベット密教や日本の左道派の教えにかなり近いものがある。おそらく、なんらかの宗教書を読んでいるんじゃないかと思う。
メンドーなのは、その理屈をそのまま拝借するわけでもなく、かといって出典を明かして自分の考えを対比させるわけでもなく、どこまでが代々木忠のオリジナルなのかわからないことだ。

もちろん、体験を踏まえた部分はまるごと代々木理論と言ってもいいので、そこの部分は説得力をもってせまってくる。だが、たとえば、「オーガズムとはエゴの崩壊であり死である」として「エゴが死んではじめて<愛の状態>」が生まれるとしている。
この愛というのは「執着心や独占欲を多分に含んだ恋愛の愛ではな」く、それが何であるかは「本書を通して伝えられたら」としている。
本の中味自体はいろんな体験を通しての実践法が記されていて、まさにその話こそがこの本の白眉な部分なわけだ。それらの珠玉のような実践法のあと、さっきの「愛の状態」っていうのが説明されるのだが、それって仏教で言う「解脱」のことに他ならなかったりする。

せめて参考文献が示されていればいいんだけど、それがないのでどこまでが代々木忠のオリジナルなのか比較しようがない。
体系化に失敗しているのはそのあたりが無頓着なところもあるんだろう。

まぁ、それでどうって話でもないかぁ。
この本の理屈部分なんてあまり主要ではない。

この本はあくまでも実践書。
「SEXってこういうもんだよねぇ」という指南書だと思う。

かつて、日本では若者組や娘組がSEXの実践的な指南を担ってきた。
各地にあったといわれる「夜這い」という風習は、まさに実践的な性教育の場であった。
それが明治に入って廃止される。国策による「醇風美俗」と「純潔教育」によってである。
性的な知識は個人の裁量にまかされ、じゅうぶんな習得がなされようがなされまいが、いきなり実践を余儀なくされるわけだ。

民俗学者・赤松啓介によれば日本において処女はそんなに尊ばれるようなものではなかった。むしろ生娘の味などたかが知れているわけで、だからこそ、「筆おろし」や「水揚げ」の儀式はムラでは普通に行われてきたことだ。
ムラとして若衆・娘集の幹部が苦労しながら、若者の性をコントロールし、つがう相手をみつけたりしてきた。

今はそれを各個人でやるしかない。
だからこそ、逆に無節操な性がはびこるんじゃないかとすら思える。

日本人は近代化された社会を手に入れ、近代的自我と自立を促される。近代的な自我をまとった個人の自立というのは結局、1人でなんでもできる人間になるってことでもある。
1人でなんでもできる人間は1人でいることが当たり前になる。
でも人は1人ではいきられない。誰かを欲する、あるいは欲されたいと願う。
自立すると言うことは寂しさを自覚することでもある。
だから人肌を求めてしまうのかもしれない。

でも、人とのつきあいは誰かに教わらないと、なかなか習得できるものではない。
それは本来、コミュニティーが教えてきたのだ。
人の自立を促す社会は個人主義を生み、結果、コミュニティーが希薄になり、孤独を感じる人間を増やし、そしてどうやって人を愛せばいいかわからない人間を生み出すことになる。

男女の恋愛において、SEXって絶対、大事だ。
だけど、今はSEXの仕方を教えるところがどこにもない。
『プラトニック・アニマル』を読むとつくづくそんなことを思い知らされる。
今は案外AVで性を勉強していたりするんじゃないだろうか。

ホントは、この本の梗概でも書こうかと思ったけど、やっぱ、無理!
まとめようがないよ。この本をまとめるには、自分は余計な勉強をしすぎたのかもしれない。
だからヘンな色気なんて出さずに、さっさと淫語のとこだけ抜き出してまとめちまうか。
どっちにしろ、早く決着つけなきゃ。

あと、次回のUPは淫語娘にするつもり。
さっき途中までカウントしたけど、まだ出来ていないから水曜日になるかもね。

文壇アイドル論における「おまんこ」 

  • [2007/08/02 12:14]

6/27付けの記事。「おまんこがいっぱい」から淫語を考えてみる。の続き。

あの当時、上野千鶴子がなぜ受けたのか。
文芸評論家の斎藤美奈子は『文壇アイドル論』の中で、2つ理由をあげている。
1つは「彼女の言説が『男の鑑賞にも堪える』ものだった」こと。
もう1つは「ケンカ好き」で「論争にだけはめちゃめちゃ強かった」こと。

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文壇アイドル論

斎藤 美奈子 (2002/06/27)

岩波書店

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要するに斎藤の結論は「上野千鶴子の強味は、やはり理屈(含む屁理屈)の部分」ということである。
その論理的な言説が、比較的、男性には受け入れやすく、またバブル期にさしかかり「若い女性」が消費された時代において、それに違和感を感じる女性たちにも納得させうるものだったからとしている。

自分が問題にしたいのは次のくだり。

『女遊び』は女性器アートで目をひく本だといいましたが、それ以上に話題になったのは巻頭に収められた書き下ろしエッセイです。それは「おまんこがいっぱい」と題されていました。

おまんこ、と叫んでも誰も何の反応を示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして”女性自身(わたしじしん)”がみえてくることだろう。(上野千鶴子「おまんこがいっぱい」/『女遊び』一九八八年)

これを「ダサい」といわずして……。一〇年前ならいざ知らず、いまごろ「おまんこ」もねえだろおよ。リアルタイムで読んだときの、それが私の率直な感想です。

「上野千鶴子 バイリンギャルの敵討ち」『文壇アイドル論』岩波書店 2002年

この反応が面白い。
なぜ、彼女はダサいと思ったんだろうね。
しかも、なんで10年前なら「おまんこ」文はOKなのかは、この時点ではよくわからない。
そこでさらに読み進めていくと、

くだんの「おまんこ」だって、もとはといえばリブ的言説。七〇年代のベストセラーにとっくに書かれていたことでした。

神代の女のそれは「ほと」とよばれた。/熊本の女のそれは「めめ」とよばれた。/大阪の女のそれは「おめこ」とよばれた。/東京の女のそれは「おまんこ」とよばれた。/(略)/現代人である私たちは「ほと」という言葉ならなんのためらいもなく口にすることができるけれど、「おまんこ」とは言いにくい。山梨の人びとはブリジット・バルドーの愛称「べべ」を発音するのにかなりの抵抗を感じるし、四国のある地方では、「夜霧に消えたチャコ」という流行歌が禁歌に近い扱いを受ける。(中山千夏「女の性器はだれのもの?」/『からだノート』一九七七年)

一九七七年の時点で、こうしたエッセイには意味があったことは認めなければなりません。第二派フェミニズムは、女が女の身体を肯定的にとらえることにも大きなウェイトがあった。ウーマンリブの流れをくんだ「女のからだ」系の書物は八〇年前後にブームにさえなっています。
(略)ただそれは八〇年代も初頭までの話、八八年に「おまんこエッセイ」はない。

この中山千夏の本は、中学生ぐらいの時に読んだ。
なぜかうちにあったんだよねぇ。んで、まだその当時は女性の生理とかよくわからなかったからさ。事実上、自分にとっては「目からウロコ」の性教育本だった。

しかも今から考えてみると、伏せ字のない「おまんこ」という四文字を活字で見たのは、この本がはじめてだったかもしれない。
実際のところ、どうなんだろうね。 辞書を抜かせば、伏せ字なしの本となると、自分が遡れるのはこの本ぐらいなんだが。

んで、だ。
斎藤美奈子なんだけど、なぜ「88年におまんこエッセイはない」のか。80年代初頭と末とではどんな境目があったのか。
どこを読んでも今ひとつはっきりしない。
むしろ、中山千夏がこの時、なぜ「おまんこ」を口にしたのかその背景を考えれば、斎藤のこの反応はむしろおかしいと思う。

言葉というのものは、使う人びとの意識によって、その内容を変えてゆくものだ。
どんなに新しいすてきな名前を女の性器につけたとしても「性行為の際だけ女の性器とかかわる男の意識」でその名前が使われるなら、やがてその名前にもいかがわしいよごれがこびりついていくるだろう。
逆に、ワイセツな陰語になっている名前を、まったく違った意識をもってどんどん使っていくことで、よごれを落とすことができるかもしれない。
私が、今とりあえずとっているのはその方法だ。なるべくだれでも知っている言葉の中から、いちばん好きな「おまんこ」を選んで、これを私の性器の俗称に決めた。使う時には、厳密に性器の意味でしか使わない。性行為を指したりしないのは、もちろんのことだ。
そう決めてしまったら言葉に対する嫌悪感も薄れる。はじめは少しとまどっていた友人たちも、この言葉の使われ方を知ると、だんだん気にしなくなった。性器についての話などは、気のおけない友人たちとするぐらいだから、この言葉を発したために騒ぎが起きた経験はない。

中山千夏「話しちゃおう」『からだノート』ダイヤモンド出版 1977年

斎藤のように「おまんこエッセイ」はないと反応する女性がいるかぎり、中山千夏も上野千鶴子も「おまんこ」を口にする意味があるのではないか。それは21世紀に入っても状況的には変わらないと思う。
金原ひとみの小説に対して嫌悪感を抱く女性がいまだにいるしねえ。

ホントのところ、斎藤美奈子は「おまんこ」という言葉に対してどう思っているんだろう。
「いまごろ『おまんこ』もねえだろおよ」と思う斎藤美奈子は、「おまんこ」という言葉に過剰反応しているようにすら思えるんだが。
なぜ彼女は「おまんこ」文を否定するのか。

あくまで私の推測ですが、「おまんこがいっぱい」に拍手喝采したのはごく少数、おそらくその一〇倍以上の人が「バカじゃないの?」と思ったのではないでしょうか。これはフェミニズムに賛同するとかしないとかの問題ではありません。<おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。>(「おまんこがっぱい」)てな物言いに共感する人がそんなにいたとは思えない。世間知らずのレッテルを貼ってやりたくなるのがオチです。

「上野千鶴子 バイリンギャルの敵討ち」『文壇アイドル論』2002.6.26

『文壇アイドル論』が発刊された2002年といえば、年末に『ヴァギナ・モノローグ 』というアメリカの本が翻訳された年だ。これは女性たちが自分の「ヴァギナ」について語る一人芝居を本として出版したもので、芝居自体は日本でも何回か公演された。
日本では「ヴァギナ」というコトバは「おまんこ」や「おめこ」に直され上演されていたらしい。

ヴァギナ・モノローグヴァギナ・モノローグ
(2002/12)
イヴ エンスラー

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「ヴァギナ」。言ったわよ。「ヴァギナ」――ほら、もう一回。この三年間、わたしはこの言葉を、何度も何度も言いつづけてきた。国じゅうの劇場で言い、大学で言い、人の家のリビングで、カフェで、パーティーで、ラジオ番組で、言いつづけてきた。お許しさえ出れば、テレビでだって言っただろう。『ヴァギナ・モノローグ』を一回上演するごとに、わたしはこの言葉を百二十八回口にする。これは年齢も人種もまちまちの、二百人以上の女性たちにヴァギナについて訊ねた、そのインタビューをもとに書きおこした一人芝居だ。わたしは寝言でもこの言葉を言う。言ってはいけないことになっている言葉だから、言う。人目を忍ぶ言葉だから――不安や混乱、軽蔑、嫌悪を引きおこす言葉だから――だから、この言葉を使う。

イヴ・エンスラー 『ヴァギナ・モノローグ』岸本佐知子訳 白水社 2002.12.30

この本が翻訳された年に、斎藤がいまどき「おまんこ」はないと言いきることには皮肉なものを感じてしまう。

「おまんこ」という言葉への距離感は当然のことながら個人差があると思う。
ただ単に「斎藤美奈子」にとっては、いまだに「おまんこ」という言葉が生理的に受け付けないだけなのではないか。
普段から「おまんこ」を口にする女性は多くはないかも知れない。だからといって決して少ないというわけでもないというのが自分の実感だ。

ただ、これはあくまで自分の経験則から出ている話でね。
実際は、いまだに謎なんだよね。地域差もあるような気がするしなぁ。文化的背景というかさ。
アメリカと日本じゃあ、やっぱり全然、違うはずだし、江戸時代の文献とか読むとさ、そんなに淫語がダブー視されていたとは思えないんだよなぁ。
日本でその言葉が禁忌の言葉にされたのは、明治期に西洋化していく文明と関係あるのかもしれない。キリスト教社会への近代化が古来からのいくつかの習俗を禁忌化していったことは、間違いのないところだからね。
当然、関東と関西では違うと言うことも考えられる。
斎藤は東京風で、上野は関西風なのかもしれない。

ときどきさぁ、日本全国を歩き回って、淫語調査してみたい衝動に駆られることがある。
ただどうやってやるのかが問題だけどね。

自分にとって「淫語」はいまだに不思議な呪文なんだ。
男女に限らずそれに嫌悪感を示す人がいるのはどうしてなのか。なぜ、それを恥ずかしがる人がいるのか。
平気で口にできる女性が、いざコトをいたすとなったら、急に恥ずかしがって抵抗したりね。
Marin.の小悪魔の教室で、Marin.に淫語を言わせまくっていたはずのK*WESTが、逆にMarin.からこの先汁は何かと聞かれて、なぜか言いよどんでしまうように、淫語というのは意識し出すと急に言えなくなってしまうこともあるんだな。
実に不思議な言葉なんだ。

さらになぜかその言葉を使うことによって、女性のホンネが聞こえてくる気がするんだな。男の場合以上にそれは感じる。
この点においては、フェミ風な意味でとらえている『ヴァギナ・モノローグ』と、SEXの指南に近い『プラトニック・アニマル』とが非常に似通ったことを言っているんだよね。

だから次回は、代々木忠監督の『プラトニック・アニマル』の話。
ちょっとフェミ臭が漂いすぎたので、一度、AV関連に戻そうかと。

それと『文壇アイドル論』の中での引用で、1つ、おもしろい指摘があった。
呉智英が「上野の場合は、不良言葉を使っているけど、ツッパッているだけで禁語にはなっていない。もし男性社会の隠語に挑戦するというなら、あの人は富山出身なんだから、ゾッペ、チャンベといわなくちゃ。おまんこと言ったって恥ずかしくないんだよ(呉智英談「週刊朝日」1990年2月8日号)」と言っているんだけど、この「不良言葉」という語感は確かにあるかもと思った。

女性が淫語を多発している小説を読むと、キャラ的にやさぐれた感じがしてしまうのは、もともと不良言葉として潜行していたからかもしれない。
このあたりにも何か鉱脈がありそうな気がする。
それに淫語は「おまんこ」だけではない。
男性器はどういう位置づけになるのかと考えると「不良言葉」からのアプローチはありかもしれない。

ところで「ヴァギナ・モノローグ」の公演だけど、アリーmyラブのキャリスタ・フロックハートも出演したことがあるらしい。
脳内変換すると若村麻由美が「おまんこ」を言いまくっていたのかと思ってちょっと萌えた。

若村麻由美の声はスキなんだよなあ。

司馬さんの『東と西』っていう対談集も面白いです。 

  • [2007/07/14 23:46]

結構、このblogでは特定の1人に向けて書くことが多いんだけど、この記事は男根主義と女体主義のコメントの流れで、藩金蓮さんに向けての返事をここで書くことにします。

というより完璧にこの時の記事の内容からズレてしまっているからね。もともとある覆面監督さんの正体を知ってしまったところから、あのデビルマンのエンディングを連想して、そこからなぜか仏教ネタに突入してしまったんだけど、それが歴史の話になっちゃって、もはやなんのことだがわからなくなっているので、あらためて別項に起てるわけですよ。

まぁ、私はこの手の話をするのが大好きなもんでね。
ではでは。


団鬼六さんの話に関してはそのうち『不貞の季節』について書こうかと思っているので、その時にまたします。
あと自分も萩・下関にはいつかまた行きたいです。

 そう言えば、薩摩や長州なども情で動いている感じがします。だからこその限界があったような気もします。幕末だけではなく、その後の明治維新においても。
 その点、龍馬は郷士という身分故に背負うものが無くて非常に視野が広く自由だった。(だからこその苦しみや孤独も勿論あったと思いますが)
 新撰組は東国の人達ですもんね。
 なんとなく、私はあんまり新撰組には惹かれないのです。いまいちそこにある「美学」に共鳴しない。

私は多摩地域の生まれなんですね。生まれたところは近藤勇と同じ調布。
今は距離的には彼の墓のあるところの近くに住んでいます。
多分、私が住んでいるところの隣の市に東良さんがいて、あそこのでかい公園をいつも毎日、走っているんじゃないかと踏んでいるんですけど、そういう武蔵野の地に抱かれて育ちました。

その一方で私の両親は鹿児島の出身で、私の名字には熊襲の末裔という話があったりします。ホントのところはわかりませんけど、ひょっとしたら生粋の薩摩隼人だったのかもしれません。

で、鹿児島の話なんですけど、鹿児島と言えば西郷さんってことになるんでしょうけど、もう1人、大久保利通って人がいますよね。どうやらあまり人気はないみたいですけど、私は大久保利通が結構、好きなんですよ。
実際、日本の礎を作った人でもあるわけでしょ。鹿児島の人間は西郷の部分と大久保の部分の両方を持っていると思うんです。それに西郷も結構、冷酷なところがあるし、逆に大久保には案外、情け深いところもあるんですね。
それと鹿児島の人間って組織の理屈とか好きな方だと思いますよ。組織というより団体行動というか、みんなでわいわい集まって徒党を組んで何かする、みたいな。

ただ、利害に疎い。
お金を不浄のものだとすら思っている。
あととりあえずは建て前を大事にします。男尊女卑とか言われますしね。実際は女の人の方が実権を握っていたりするんですけど、そういう外面との立て分けがしっかりしていて、一見、保守的なところが強かったりします。
その一方でいったんケツまくるとスゴいですよ。傍若無人ですね。それが情で動くって話につながるかもしれません。
関ヶ原での薩摩の連中のケツのまくり方はスゴかったでしょう。西軍にいて密約も採っていなかったのに改易されなかったのは薩摩ぐらいなのでは。最後は徳川家康を脅してましたからね。

ただ私が見るに、情で動くと言うよりは、利害で動くことを極端に嫌う気風と考えた方が正確な気がするんですよ。金の話をするのも嫌うかな。
あと大和朝廷に滅ぼされた経験からか、中央権力を信じていない。
それとどこか熊本人をバカにしているところがある。あれはなんでしょうね。畿内からの移植者、あるいは監視者として見ていた歴史があるのかもしれません。それがDNAに刻まれているのか、それともミームってやつなのか。

藤原広嗣の乱なんかはその怨恨を爆発させたものかもしれません。
これって、平将門の乱と似ている気がするんですよ。
関東もまた大和朝廷に植民地化されたところでしょう。鎌倉幕府だってよく考えてみれば、源兄弟を差し置いて、北条氏を中心とした坂東武者の連合体ですからね。
ひょっとしたら畿内人に対する怨念という一点で似ているかもしれません。

そういえば近藤勇と土方歳三の関係って、どことなく西郷と大久保に似ているような気がしませんか。スケールは全然、違いますが。

私は鎌倉幕府って言うのは京に対しての独立戦争で、ひょっとして明治維新での薩摩の戦いも、あるいは新撰組のような存在も、そういうものが根っこの方にあるんじゃないかと思ったりすることがあります。
島津の殿様は頼朝の子孫だって言いますしね。

ほぉらぁ、止まんなくなっちゃった。wwww
何が言いたかったんだっけ?

えっと、多分、藩金蓮さんのおっしゃっていた関西のリアリズムって、「名も実も、できれば種まで取る」みたいなことかなぁと思ったんですね。
そして東国の人間のリアリズムって「名こそ惜しけれ」ってことなんだろうと。だから形にこだわる。愚直と言えば愚直。冷酷と言えば冷酷。
ゲリラ戦の天才といえば義経や楠木正成ですよね。そのような戦い方の発想は東国人ではなかなか思いつかないのかもしれません。

でも最近は、「名こそ惜しむ」という発想は多摩にはなくなってきてしまいましたね。共同体が壊れてしまうと、そういう倫理観もまた同時に壊れていくのです。淋しいものです。

あと全然、違う話なんですけど、今日お書きになった話。
あれって私も似たような知人を知っているのですが、逆のケースはあるんですかねぇ。女の人は、男の人からあんな風に言われたら、婚約破棄にいたることはあるんだろうか?
なんてことをふと思ってしまいました。

でわでわ。

んーーーーー。
なんかちょっと強引に東と西をわけすぎているかなぁ。
ブツブツブツブツブツブツ・・・・・・・。

「おまんこがいっぱい」から淫語を考えてみる。 

  • [2007/06/27 23:22]

ちょっと長くなるけど早速、引用。
上野千鶴子のエッセイ集『女遊び』に収められ、当時、世間の耳目を集めた書き下ろしエッセイ「おまんこがいっぱい」は以下のように始まる。

女遊び
わたしは良家の子女(!)だったから、思春期にひそひそ話や意味ありげなくすくす笑いとともに性情報が伝わる悪ガキ集団から、隔離されて育った。大きくなってから、おまんこというコトバを覚えたが、それはカントという英語や、ヴァギナというラテン語や、またはボボという九州方言と同じくらい、わたしには「外国語」だったから、カントと聞いてもちっとも顔が赤らまないのと同じ程度に、おまんこと言っても解剖学用語のようにしか響かないのだった。ちょうど性に目覚める頃、自分のうつぼつたる生理感覚や、周囲の反応で直観的にそれがタブーだとわかってしまうような禁止の感覚と、おまんこという四文字コトバがふつうなら結びつくところが、その連想がうまく形成されなかったのだろうと思う。

おまんこ、というコトバを覚えてからのわたしが、おまんこ、と口にしてみると、周囲の狼狽ぶりや眉のひそめようがおもしろくて、それからというもの、おまんこというコトバは、他人がイヤがる反応を引き出すための、マジック・ワードになった。知り合いの六歳のコドモが、チンチン、と言うと母親がイヤな顔をするもので、ただ母親の反応を引き出したいためにだけ面白がってくり返しチンチン! と叫ぶのに、それは似ていた。母親がなぜイヤな顔をしたり、やめなさい、と怒ったりするのかよくわからないけれども、この魔法のコトバは、そのつど確実に母親の反応を機械的にひきおこすものだから、コドモはその呪文の威力をくり返したしかめては喜んだ。そして、その呪文の威力をつうじて、母親に力を行使できる自分をたのしんでいるふしがあった。

コドモは母親以外にも呪文の威力がためしたくて、出会う大人にのべつくまなしにチンチン! とやっては、母親のヒンシュクを買った。わたしはこのコドモのオバである。 このコドモが一二歳になった頃、チンポのケが生えてきた、と言う。この年齢までに、コドモはさすがに、チンポのケ、と叫んで大はしゃぎするほどのコドモらしさを失なっていた。わたしがチンポのケ! と叫ぶとコドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。コドモは性の情報をどこからか身につけてオトナの世界に行ってしまったのだろうか、とオバは遊び相手を失ったさびしさで、もう一度だけ、チンポのケ、とつぶやいてみる。

おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。こんな楽しみはたあいのないもので、相手が反応しなくなったら、おしまいである。動かなくなったおもちゃを捨てるように、わたしはおまんこというコトバをあっさり捨てるだろう。逆に言えば、周囲が眉をひそめつづける間は、おまんこと言いつづけるだろう…。

上野千鶴子「おまんこがいっぱい」『女遊び』所収 学陽書房1988

まず、彼女が「おまんこ」というコトバになんら卑猥なイメージが伴っていないということからはじまり、次に卑猥なイメージが形成されていないコドモを引き合いに出して、オトナに「チンチン」というコトバを投げつけ、母親ですらなんらかの威力を行使できることをコドモは楽しんでいるのではないかと推察する。
ところがコドモもいつのまにか成長してしまい、そのコトバのもつ卑猥なイメージを恥ずかしがるようになる。上野は同志を失いつつ、いまだにオトナたちの反応がおもしろくて人前で「おまんこ」と言う。

まとめれば、こんなところか。

もちろん彼女はフェミニストなので、淫語のいやらしさについて語ろうとしているわけではない。

ついでだからエッセイ全体を軽くまとめてみると、この書き出しを受けて「おまんこは誰のものか」という問いを設け

「おまんこを花と形容したのも男なら、ボロぎれと呼んだのも男だ。女にはどちらもわからない。というより女にはどちらも関係ない。おまんこは花でもボロでもない。おまんこはおまんこだ。しかし男たちがおまんこを、すみれ、ウニ、ひとで、二枚貝、傷口……と呼ぶのは、女たちを脅えさせ、混乱させる。おまんこを定義する力は、男たちが持っているからだ。

という話を展開する。

さらに、男は女の性器にファンタジーを見るが、女は男の体にファンタジーを求めているとは一概に言えないとする。その例としてフェミニズム・アートがなぜか男の体より、女の体、特に女性器にこだわっていることに着目する。

女遊び 表紙絵
この本の表紙や本の挿絵にもなっているのだが、これを創っているジュディ・シカゴをはじめ、女のアーティストたちがおまんこアートにこだわり、造り続ける理由は、女のエロスの根底にナルシシズムがあるからではないかと考える。
そのオートエロティシズム(自己性愛)はまた同時に、女は必ずしも男の体を必要としているわけではないということを示唆する。

そして、おまんこを神秘化したり、汚らわしいものだと思ったりするのは男どもに任せて、女はおまんこをありのまま受け入れ、「おまんこを通して自分自身と世界を見ていこう」ということで話を結ぶ。

まぁ、この辺りは男である自分からすると微妙な疎外感を感じつつ「へぇー」とでも言っておくしかないわけだが、ここでは構造主義者でもある彼女の次の一節に注目しておきたい。

おまんこ、と唱えて相手の驚く顔が見たい、というわたしのこどもじみた欲求は、フーコーの言う<性の抑圧>仮説にぴったりだと、今さらのように感心する。フーコーは、禁止があるからこそ性の言説がはびこる。性の抑圧と性的ディスコースの特権視は、タテの両面だと喝破した。おまんこ! と叫んで他人のヒンシュクを買いたいわたしの不幸なビョーキも、この近代の射程の中にあることが、今じゃはっきりわかるよ、フーコーおじさん。

ここから言えそうなことは、それが「近代」社会において「抑圧された」禁忌の言葉だから、ということだろう。
さらに言えば、それは近代に入って起こる「性倒錯」の一種ということも、気にとめておいた方がいいかもしれない。
レズビアンやフェティシズム、SMに淫語が親和性をもつのは、その辺りに理由があるとも考えられる。

ただ、注意しないといけないのは、上野の淫語の面白がり方は、あくまで相手が戸惑う反応にとどまるということだ。淫語そのものを言わせて、それで興奮するわけではない。
実際、彼女自身「おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、私はおまんこと言いつづけるだろう」と言っている。
したがって彼女は、淫語を言うことが好きかもしれないが、淫語マニアが女の人の口から淫語を聞いて性的興奮を得るメカニズムとは違うと考えるべきだろう。
あえて言えば痴演系淫語に分類されなくもないのだが、これを淫語プレイの1つとして考えてしまうと少し混乱してしまいそうだ。
レズビアンの淫語責めに近い感覚ではあるんだろうけどね。

女遊び
女遊び上野 千鶴子 (1988/06)
学陽書房

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←古本だと1円!!

ところで、この話はここで終わらない。

というのも、自分がこの「おまんこがいっぱい」についておもしろいと思うのは、淫語関連で言うなら、この「おまんこ文」そのものに対する世間の反応なのだ。
特に『文壇アイドル論』で上野を俎上に上げた、文芸評論家・斎藤美奈子の評価はとてもおもしろい。
だから次回は、斎藤美奈子の「おまんこがいっぱい」の反応について確認してみたい。
淫語に対する彼女の姿勢が、淫語に批判的なAVユーザーのそれと同根のような気がしてならないのだ。

同じエロビデオを見ているはずなのに、淫語に興奮する者もいれば、はげしく萎えるという者もいる。
一体、これはどうしてなんだろうね? フーコーおじさん。

補足を読む

名前のない女たち 

  • [2007/01/18 12:21]

名前のない女たち 名前のない女たち
中村 淳彦 (2004/06)
宝島社
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この本は普通のインタビューものとは趣が違う。
あえて言うなら小説的技法を駆使したインタビュー集ということになるのか。

インタビューにしては、聞き手である中村淳彦が出過ぎているのである。
余計なエピソードを入れ込んでいたりするのである。
女優視点の一人称独白形式に書かれている箇所もあって、ハッキリ言って創作しているのである。
常識で考えればあり得ない話だ。

でもそこがおもしろい。

そもそも、こんな雑誌の取材にAV女優たちが本当のことを語っている保証はない。
全部、嘘だとは思わないが、どんな正直な人間だって、そうそう事実を正確に認識しているヤツはいないだろう。
ましてやウソをつくのが好きな女だっている。
病的なコだっているはずだ。 だから、中村淳彦のこの書き方は間違っていないと思う。

“恋愛”できないカラダ―名前のない女たち〈3〉 “恋愛”できないカラダ―名前のない女たち〈3〉
中村 淳彦 (2006/04)
宝島社

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実際、怪しいところもいくつかある。
たとえば3作目に登場する「恋愛できないカラダ」のあかねさん。
親のあまりにむごたらしい虐待に耐えかねて、中学卒業式の日、始発に乗って成田までいき、そのまま国際線に乗ってニューヨークまで逃げたとある。

パスポートは?

9月からハイスクールに通ったという。

留学手続きは?

疑問符いっぱいの話が展開されているが、中村淳彦は信じたのか、信じたフリをしたのかわからないが、そのまま彼女の話を載っけている。
(※07/01/21追記 事の真相は、中村氏の07年1月20日付けブログ参照)

でも、それがウソでもかまわない。
実際、このシリーズでも「オタク女優」として名をはせた木下いつきが、そのキャラのまま1作目に登場して中村淳彦をうんざりさせていたが、2作目ではそのオタク女の仮面をはずしてぶっちゃけたところを見せたりしている。
中村淳彦も別に裏付け取材のようなものは積極的に行っていないようだ。
あまり意味がないと思っているのだろう。それとも単にいい加減なのか。
いずれにしろ、事実かどうかはこの本のテーマからすると枝葉末節の話だ。

名前のない女たち 2 名前のない女たち 2
中村 淳彦 (2005/09/30)
宝島社

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この本のテーマは、「なぜ目の前にいる彼女は、AVの仕事を選んだのか」ということである。
でもその答えは、本の中で答えているようで答えきれていない。動機らしいものは語られるが、それはどれも皮相的な答えのように思える。
とりあえず、その理屈で納得らしきものはできるが、それでもやはり疑問に思うわけだ。
「なぜ彼女はAV女優をしているのだろうか?」
その問いは、そのまま取材する側の中村淳彦にも跳ね返ってきている。
「なぜエロライターなのか」

自分は何者なのか、何がしたいのか、どうして今の仕事を続けているのか、そんなもの、自信をもって答えられる人間は少ない。答えられたとしてもそれが錯覚でないとどうして言えるだろうか。
でも人は自我に目覚めてしまうとどうしても自問せざる得ない。
なぜ自分は生きているのか。

そもそも小説というのはそういうもんだった。
近代小説、いわゆる純文学といわれるものは、おもに自我をテーマにしたものを言う。
自分とは何か。
何者なのか。
何を知ることができ、何を望んでいるのか。
その命題は他者にも向けられ、普遍的な問いに発展する。
人間とは何か。

この本は、普通のインタビュー集とは違う。
最初は、中村の気まぐれで、いろんな書き方をしたのかもしれない。編集者をダシにして狂言廻しに落とし込んだり、取材対象と直接関係ない話を織り込んでみたり、私小説まがいの書き出しまである。

ただ、あまりにも、いろんな書き方をしすぎている。
最近はそれが少し危うい感じがしなくもない。筆が走りすぎている。
中村淳彦の立ち位置も、実際の彼より保守的な面を打ち出しすぎなようにも見える。

だから、3作目を読み終えたとき、本が予想外に売れすぎて、中村淳彦自体、変なプレッシャーを感じていなければいいが、と心配になったりした。
いっそのこと、小説家になればいいのに。
案外、うまくいくのではないかと無責任なことを考えたりして。

それが小説を書くどころか、AVを作り出した。
ちょっと驚いた。
『名前のない女たち』の手法でAVを作っているという。

やっぱり行き詰まっていたのかな。

そんで、買ってみることにした。しかも当人から直接。
さて、その感想は。