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 2008年07月 

明日はアップできるだろう。 

  • [2008/07/23 12:44]

データは採ったんだけど昨日も邪魔が入って最後まで作れなかった。
昨日みたいな熱帯夜だとビールとか飲みたくなるらしい。んでもって1人で飲むより誰かと飲みたい。暇そうなヤツはいないか。どうせこいつ暇だろう、電話してやろう。ってな感じで誘われるわけだ。

暇じゃないんだけどさ。AV見ているから忙しいなんて断る理由にならない。
どうも地元のヤツらに暇だと思われているんだよ。「AV見ているようなヤツ=暇なヤツ」って図式なんだと。
こいつら、ほとんどAV見ないしなぁ。
やっぱりなんだかんだいって、自分は暇だからAVを見ているのかなぁ?
しかもAVレビューとかやっているわけで。


去年の夏、正福寺に行った。
8月8日。その日は年に何回かある地蔵堂ご開帳の日だった。時節柄、本堂では施餓鬼会も行われるようで信者さんもいたがやはり多くは見物客で、国宝の地蔵堂の中に入りお地蔵さんの写真を撮ったり、引率しているガイドらしき人の説明にうなずいたりしていた。
このガイドはどこぞの研究者だろうか。地蔵堂の屋根や柱などの建築様式を盛んに説明していた。

070808_1120~02 そのガイドの話を聞くでもなく、自分はその脇にあるたくさんの小地蔵を眺めていた。「千躰地蔵尊」とも呼ばれる由縁になった何体もの地蔵。病気などになると寺から一体借り受け、無事、平癒すると新しくもう一体そえて奉納することになっている。
前に来たときはむき出しの棚に置かれていたのに、今回見てみるとお厨子のような箱に入れられ並べられている。
一体一体見ていると、「前に数えたら1000体もなかったらしいよ」と声をかけられた。お堂の中でパイプイスに腰掛けていた老人だ。盗難防止のためもあるのか地元の人が持ち回りで見ているようだった。

「前に学生が研究のため持ってたことがあって、そん時に数えてみたら200ほど足りなかった」
こういう土地の人と話をするのは好きだ。いろいろ質問すると昔の話をいっぱいしてくれた。ずっと座っていて暇だったこともあるんだろう。土地の人ならではの話。伝聞のたぐいで学術的にはなんの価値もない。
それでもこういう話からその土地で生活するものの空気が伝わる。
お地蔵さんはムラの象徴でもあるのだ。この土地とともに息づいてきた仏さんなのだ。

外に出ると先ほどのガイドが地蔵堂の脇に格納されている板碑の話をしていた。
板碑は関東と九州にしか分布されてないというような話をして、自分なりの意見を述べていた。
その板碑は阿弥陀の種子が彫り込まれたもので、東京では一番大きいということだ。かつてこの村の人はそれを近くの川にかけ、橋がわりにしていたらしい。
その後、この橋を動かすと祟りがあるとかで河川の改修時にこの寺に奉納した。

引き返して先ほどの老人に「本当に祟りがあったんですか?」と聞くと、ニヤッと笑ってまたいろいろ話してくれた。
帰りに「この辺りにかかっていた」と教えてくれた場所まで行ってみた。
今はもう整備された小さな河川だった。おどろおどろしい空気はみじんもない。

本もそうだが一次資料にあたらず学者や作家が解釈したものでわかった気になるのは愚かなことだ。
ましてや文化・民俗・生活にまつわることならやはり現地に行かないといけない。
文字化するということは、むき出しのままあふれかえっている生の情報から意識的にすくい上げるということだ。本来なら五感で味わうところを言語で抽出し、その書き手が抽出した言語からさらに取捨選択して、再構築してみせる。
それはそれでその作家固有の考える道筋を追体験できて面白いわけだが、しかし素材そのものすべてを伝えきっているわけではない。すくいきれない感触は残る。むしろその方が多い。当然、気づけてないこともある。またその時に良い出会いがあるとも限らない。

他人の意見は大事だ。だから本を読むことはとても大事だ。
でも自分の意見はもっと大事だ。だから生の感触を確かめに出向くことをおっくうがってはならない。

民俗学者の宮本常一は、民俗資料収集のために6万キロ歩いたという。彼は晩年、「記憶されたものだけが記録にとどめられる」と言っていた。彼の本を読めばわかるが実によくモノを観察している。

司馬遼太郎が『花神』で食事シーンを書いているときに、宮本常一の眼が気になったという話が残っている。日本で民具の取り扱いについて一番わかっているのは宮本だ。生活民具の使い方など当たり前すぎて逆に記録として残されづらい。本などでは調べようのない宮本の情報の蓄積に司馬は一目置いていた。
世間的にも、もっと有名になっていい学者だと思う。学界ではキワモノ扱いなところがあるわけだが、キワモノにしても知名度が低い。

この人も貧乏暮らしだった。
家を購入し家族と一緒に暮らせるようになったのは50を越えてから。
しかも多摩の土田舎。今でこそ住宅街だが、当時はススキだらけの荒れ地。
武蔵美で先生をしながら地元の人ともよく交流し多摩土俗の写真をたくさん残している。大変尊敬され愛された学者でもあった。