もっと言葉の余韻が楽しめるようにしてほしいよね 

  • [2009/07/24 23:53]

しかし、どうしてAVの編集って言葉を大事に扱おうとしないのかねぇ。
言葉きっかけで編集することを「ダイアローグ・カット」って言うらしいんだけど、小栗康平がこんなことを書いている。

 映像はセリフが終わっても、それですぐに次のカットに切り替わるわけではありませんが、それではどれだけの「間」がそこにはあるのでしょう。

小栗康平 『映画を見る眼』 NHK出版 2005.6.25発行 65p

そう、言葉はただ意味内容さえ伝わればいいわけじゃない。
特に話し言葉の間には言外の感情が読み取れたりするものだ。

 ごくふつうの日常的な会話のやり取りであれば、映画では八コマとか、十二コマというのが一般的でしょうか。半秒から半秒弱というところです。これも、監督や編集者の生理、作ろうとしている映画の中身によってずいぶん異なってきますし、シーンごとでも一つひとつみな違います。
 ラブシーンにはラブシーンの時間があるでしょうし、激昂すれば会話のやり取りは早くなるでしょう。そしてそれが撮られている画面のサイズによっても微妙に変化してくることもあります。それらを一々、ここは六コマだ、十六コマだ、いや三十二コマだと、その映画、そのシーンにもっともいい間合いを探っていきます。
 私たちのじっさいの会話では、今何コマの間合いをおいて自分は喋っている、などとは考えません。しかし映画は、ふだん意識されないそうした細部の領域を、具体的な感覚として確かめていきます。

小栗康平 『映画を見る眼』 NHK出版 2005.6.25発行 69p

映画は一秒につき24コマ。ビデオだと30フレーム。つまり30枚の画像で1秒だ。映画の8コマはビデオの10フレーム。半秒なら15フレーム。
だけどAV見てると2.3フレームで切り替えたりするんだよね。
言葉の余韻を味わうことなく、いきなりクンニしてたりする。

こういう切り方を見るたびに、この監督はきっと言葉が上っすべりしているヤツなんだろうなぁと思ってしまう。

言葉はロジックだけじゃないんだよね。論理だけでは人の心は動かせない。言葉が人の心を打つのはポエティックな部分があるからでしょ。

詩的な側面を有しているのが言葉なのに、台詞を言い終えた瞬間に間髪入れず切るなんて、空虚な会話をしているとしか思えない。なぜ言葉の「息づかい」を味わうような切り方ができないんだろう。 その「息づかい」こそ、言葉にできない思いが詰まっているものなのに。

詩心の無いヤツが編集とかやってんじゃねぇーよ。このバカチンが!

もっと言葉を大事にしてくれよぉ。
むしろそこにエロが芽吹いていたりするんだからさ。
それとも所詮、AVっていうのは言葉にがさつで鈍感な連中が作っているものなのか。

・・・ってさっきあるAVを見ていたらそんなことを思ってしまいましたよ。
なんかカラミに入る前にガックシきた。

あとPCを入れ替えてからというもの、やたらWINDVDがCPUを使いまくって不安定になる。
どうもビデオカードの相性がよくないようだ。
台詞を抜き書きするときに何度もリピートボタンを押すんだけど、レスポンスが悪くてイライラする。

NVIDIAのオンボードだしなぁ。新しいビデオカードでも買ってくるかなぁ。