文壇アイドル論における「おまんこ」 

  • [2007/08/02 12:14]

6/27付けの記事。「おまんこがいっぱい」から淫語を考えてみる。の続き。

あの当時、上野千鶴子がなぜ受けたのか。
文芸評論家の斎藤美奈子は『文壇アイドル論』の中で、2つ理由をあげている。
1つは「彼女の言説が『男の鑑賞にも堪える』ものだった」こと。
もう1つは「ケンカ好き」で「論争にだけはめちゃめちゃ強かった」こと。

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文壇アイドル論

斎藤 美奈子 (2002/06/27)

岩波書店

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要するに斎藤の結論は「上野千鶴子の強味は、やはり理屈(含む屁理屈)の部分」ということである。
その論理的な言説が、比較的、男性には受け入れやすく、またバブル期にさしかかり「若い女性」が消費された時代において、それに違和感を感じる女性たちにも納得させうるものだったからとしている。

自分が問題にしたいのは次のくだり。

『女遊び』は女性器アートで目をひく本だといいましたが、それ以上に話題になったのは巻頭に収められた書き下ろしエッセイです。それは「おまんこがいっぱい」と題されていました。

おまんこ、と叫んでも誰も何の反応を示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして”女性自身(わたしじしん)”がみえてくることだろう。(上野千鶴子「おまんこがいっぱい」/『女遊び』一九八八年)

これを「ダサい」といわずして……。一〇年前ならいざ知らず、いまごろ「おまんこ」もねえだろおよ。リアルタイムで読んだときの、それが私の率直な感想です。

「上野千鶴子 バイリンギャルの敵討ち」『文壇アイドル論』岩波書店 2002年

この反応が面白い。
なぜ、彼女はダサいと思ったんだろうね。
しかも、なんで10年前なら「おまんこ」文はOKなのかは、この時点ではよくわからない。
そこでさらに読み進めていくと、

くだんの「おまんこ」だって、もとはといえばリブ的言説。七〇年代のベストセラーにとっくに書かれていたことでした。

神代の女のそれは「ほと」とよばれた。/熊本の女のそれは「めめ」とよばれた。/大阪の女のそれは「おめこ」とよばれた。/東京の女のそれは「おまんこ」とよばれた。/(略)/現代人である私たちは「ほと」という言葉ならなんのためらいもなく口にすることができるけれど、「おまんこ」とは言いにくい。山梨の人びとはブリジット・バルドーの愛称「べべ」を発音するのにかなりの抵抗を感じるし、四国のある地方では、「夜霧に消えたチャコ」という流行歌が禁歌に近い扱いを受ける。(中山千夏「女の性器はだれのもの?」/『からだノート』一九七七年)

一九七七年の時点で、こうしたエッセイには意味があったことは認めなければなりません。第二派フェミニズムは、女が女の身体を肯定的にとらえることにも大きなウェイトがあった。ウーマンリブの流れをくんだ「女のからだ」系の書物は八〇年前後にブームにさえなっています。
(略)ただそれは八〇年代も初頭までの話、八八年に「おまんこエッセイ」はない。

この中山千夏の本は、中学生ぐらいの時に読んだ。
なぜかうちにあったんだよねぇ。んで、まだその当時は女性の生理とかよくわからなかったからさ。事実上、自分にとっては「目からウロコ」の性教育本だった。

しかも今から考えてみると、伏せ字のない「おまんこ」という四文字を活字で見たのは、この本がはじめてだったかもしれない。
実際のところ、どうなんだろうね。 辞書を抜かせば、伏せ字なしの本となると、自分が遡れるのはこの本ぐらいなんだが。

んで、だ。
斎藤美奈子なんだけど、なぜ「88年におまんこエッセイはない」のか。80年代初頭と末とではどんな境目があったのか。
どこを読んでも今ひとつはっきりしない。
むしろ、中山千夏がこの時、なぜ「おまんこ」を口にしたのかその背景を考えれば、斎藤のこの反応はむしろおかしいと思う。

言葉というのものは、使う人びとの意識によって、その内容を変えてゆくものだ。
どんなに新しいすてきな名前を女の性器につけたとしても「性行為の際だけ女の性器とかかわる男の意識」でその名前が使われるなら、やがてその名前にもいかがわしいよごれがこびりついていくるだろう。
逆に、ワイセツな陰語になっている名前を、まったく違った意識をもってどんどん使っていくことで、よごれを落とすことができるかもしれない。
私が、今とりあえずとっているのはその方法だ。なるべくだれでも知っている言葉の中から、いちばん好きな「おまんこ」を選んで、これを私の性器の俗称に決めた。使う時には、厳密に性器の意味でしか使わない。性行為を指したりしないのは、もちろんのことだ。
そう決めてしまったら言葉に対する嫌悪感も薄れる。はじめは少しとまどっていた友人たちも、この言葉の使われ方を知ると、だんだん気にしなくなった。性器についての話などは、気のおけない友人たちとするぐらいだから、この言葉を発したために騒ぎが起きた経験はない。

中山千夏「話しちゃおう」『からだノート』ダイヤモンド出版 1977年

斎藤のように「おまんこエッセイ」はないと反応する女性がいるかぎり、中山千夏も上野千鶴子も「おまんこ」を口にする意味があるのではないか。それは21世紀に入っても状況的には変わらないと思う。
金原ひとみの小説に対して嫌悪感を抱く女性がいまだにいるしねえ。

ホントのところ、斎藤美奈子は「おまんこ」という言葉に対してどう思っているんだろう。
「いまごろ『おまんこ』もねえだろおよ」と思う斎藤美奈子は、「おまんこ」という言葉に過剰反応しているようにすら思えるんだが。
なぜ彼女は「おまんこ」文を否定するのか。

あくまで私の推測ですが、「おまんこがいっぱい」に拍手喝采したのはごく少数、おそらくその一〇倍以上の人が「バカじゃないの?」と思ったのではないでしょうか。これはフェミニズムに賛同するとかしないとかの問題ではありません。<おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。>(「おまんこがっぱい」)てな物言いに共感する人がそんなにいたとは思えない。世間知らずのレッテルを貼ってやりたくなるのがオチです。

「上野千鶴子 バイリンギャルの敵討ち」『文壇アイドル論』2002.6.26

『文壇アイドル論』が発刊された2002年といえば、年末に『ヴァギナ・モノローグ 』というアメリカの本が翻訳された年だ。これは女性たちが自分の「ヴァギナ」について語る一人芝居を本として出版したもので、芝居自体は日本でも何回か公演された。
日本では「ヴァギナ」というコトバは「おまんこ」や「おめこ」に直され上演されていたらしい。

ヴァギナ・モノローグヴァギナ・モノローグ
(2002/12)
イヴ エンスラー

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「ヴァギナ」。言ったわよ。「ヴァギナ」――ほら、もう一回。この三年間、わたしはこの言葉を、何度も何度も言いつづけてきた。国じゅうの劇場で言い、大学で言い、人の家のリビングで、カフェで、パーティーで、ラジオ番組で、言いつづけてきた。お許しさえ出れば、テレビでだって言っただろう。『ヴァギナ・モノローグ』を一回上演するごとに、わたしはこの言葉を百二十八回口にする。これは年齢も人種もまちまちの、二百人以上の女性たちにヴァギナについて訊ねた、そのインタビューをもとに書きおこした一人芝居だ。わたしは寝言でもこの言葉を言う。言ってはいけないことになっている言葉だから、言う。人目を忍ぶ言葉だから――不安や混乱、軽蔑、嫌悪を引きおこす言葉だから――だから、この言葉を使う。

イヴ・エンスラー 『ヴァギナ・モノローグ』岸本佐知子訳 白水社 2002.12.30

この本が翻訳された年に、斎藤がいまどき「おまんこ」はないと言いきることには皮肉なものを感じてしまう。

「おまんこ」という言葉への距離感は当然のことながら個人差があると思う。
ただ単に「斎藤美奈子」にとっては、いまだに「おまんこ」という言葉が生理的に受け付けないだけなのではないか。
普段から「おまんこ」を口にする女性は多くはないかも知れない。だからといって決して少ないというわけでもないというのが自分の実感だ。

ただ、これはあくまで自分の経験則から出ている話でね。
実際は、いまだに謎なんだよね。地域差もあるような気がするしなぁ。文化的背景というかさ。
アメリカと日本じゃあ、やっぱり全然、違うはずだし、江戸時代の文献とか読むとさ、そんなに淫語がダブー視されていたとは思えないんだよなぁ。
日本でその言葉が禁忌の言葉にされたのは、明治期に西洋化していく文明と関係あるのかもしれない。キリスト教社会への近代化が古来からのいくつかの習俗を禁忌化していったことは、間違いのないところだからね。
当然、関東と関西では違うと言うことも考えられる。
斎藤は東京風で、上野は関西風なのかもしれない。

ときどきさぁ、日本全国を歩き回って、淫語調査してみたい衝動に駆られることがある。
ただどうやってやるのかが問題だけどね。

自分にとって「淫語」はいまだに不思議な呪文なんだ。
男女に限らずそれに嫌悪感を示す人がいるのはどうしてなのか。なぜ、それを恥ずかしがる人がいるのか。
平気で口にできる女性が、いざコトをいたすとなったら、急に恥ずかしがって抵抗したりね。
Marin.の小悪魔の教室で、Marin.に淫語を言わせまくっていたはずのK*WESTが、逆にMarin.からこの先汁は何かと聞かれて、なぜか言いよどんでしまうように、淫語というのは意識し出すと急に言えなくなってしまうこともあるんだな。
実に不思議な言葉なんだ。

さらになぜかその言葉を使うことによって、女性のホンネが聞こえてくる気がするんだな。男の場合以上にそれは感じる。
この点においては、フェミ風な意味でとらえている『ヴァギナ・モノローグ』と、SEXの指南に近い『プラトニック・アニマル』とが非常に似通ったことを言っているんだよね。

だから次回は、代々木忠監督の『プラトニック・アニマル』の話。
ちょっとフェミ臭が漂いすぎたので、一度、AV関連に戻そうかと。

それと『文壇アイドル論』の中での引用で、1つ、おもしろい指摘があった。
呉智英が「上野の場合は、不良言葉を使っているけど、ツッパッているだけで禁語にはなっていない。もし男性社会の隠語に挑戦するというなら、あの人は富山出身なんだから、ゾッペ、チャンベといわなくちゃ。おまんこと言ったって恥ずかしくないんだよ(呉智英談「週刊朝日」1990年2月8日号)」と言っているんだけど、この「不良言葉」という語感は確かにあるかもと思った。

女性が淫語を多発している小説を読むと、キャラ的にやさぐれた感じがしてしまうのは、もともと不良言葉として潜行していたからかもしれない。
このあたりにも何か鉱脈がありそうな気がする。
それに淫語は「おまんこ」だけではない。
男性器はどういう位置づけになるのかと考えると「不良言葉」からのアプローチはありかもしれない。

ところで「ヴァギナ・モノローグ」の公演だけど、アリーmyラブのキャリスタ・フロックハートも出演したことがあるらしい。
脳内変換すると若村麻由美が「おまんこ」を言いまくっていたのかと思ってちょっと萌えた。

若村麻由美の声はスキなんだよなあ。