「猫と遊郭」 ちょっと中だるみのその2 

  • [2009/10/29 23:54]

猫耳ってさぁ、大島弓子のマンガのキャラを見たときからずっと思っていることなんだけど、あれって顔の横には人間の耳はついてないんだよね、きっと。
そんで横髪をたくし上げると顔の横はやっぱりつるんつるんしてるってことになるんだよねぇ、おそらく。


今日更新した「萌えっ娘 痴女 だぶるぷに」にも、猫耳バンドをつけてるコーナーがあったんだけど、耳が見えてしまうもんだから、あらためてそのことを思った。
でもあまり違和感が感じられない。結局猫耳って、見た目「耳」というより「角」なんだろうなぁ。

「うる星やつら」のラムの角も、「綿の国星」が先にヒットしてたから、あまり違和感なく受け入れられたのかもしれない。
(と思ったら、この2つの作品は1978年の同時期にスタートしたのね。【追記】)


さて早速、この間の続き。

其比、太夫、格子の、猫をいだかせ道中せし根元は、四郎左衞門抱に薄雲といふ遊女あり、此道の松の位と経上りて、能く人の知る所也、高尾、薄雲といふは代々有し名也、是は元禄七八の頃より、十二三年へ渡る三代薄雲と呼し女也、近年板本に、北州伝女をかける、甚非也、但し板本故、誠をあらはさゞるか 此薄雲、平生に三毛の小猫のかはゆらしきに、緋縮緬の首玉を入、金の鈴を付け、是を寵愛しければ、其頃人々の口ずさみけると也、夫が中に、薄雲に能なつきし猫一疋有て、朝夕側を離れず、夜も寢間迄入て、片時も外へ動かず、春の夜の野ら猫の妻乞ふ声にもうかれいでず、手元をはなれぬは、神妙にもいとしほらしと、薄雲は悦び、猶々寵愛し、大小用のため、かわや雪隱へ行にも、此猫猶々側をはなれず、ひとつかわやの内へ不入してはなき、こがれてかしましければ、無是非夫通りにして、かわや迄もつれ行、人々其頃云はやし、浮名を立ていひけるは、いにしへより猫は陰獸にして甚魔をなす物也、薄雲が容色うるはしきゆへ、猫の見入しならん、と一人いひ出すと、其まゝ大勢の口々へわたり、薄雲は猫に見入れられし、といひはやす

燕石十種 第五巻 中央公論社 1980.1.25発行 27p

このあとまだまだ続くのだけれど、取り敢えずこのあたりでいったん切って、ここでひっかかったところを。

「近年板本に、北州伝女をかける、甚非也、但し板本故、誠をあらはさゞるか」と小さく書かれているところなんだけど、これの意味が取れなくてね。
ここは作者の補足(というより蛇足)情報なので、意味がわからなくても訳出する上で大過はないんだけど、意味が取れないのは気になるんだよね。

「北州」というのは吉原のことなんだけど、「吉原の女性」について書かれている本ってことだろうか? いわゆる「吉原細見」などが、「北州伝女をかける」ってことになるのかなぁ。
それとも吉原の伝説の遊女について書かれていた本なのか。

ということで訳しては見たものの、ここはちょっと自信がない。

そのころの太夫や格子女郎が猫を抱いて歩くようになったのは、三浦屋にいた薄雲という遊女による。この薄雲は吉原女郎でも太夫まで登りつめた、世間にもその名の通った人気の遊女だった。
「高尾」「薄雲」というのは吉原において代々引き継がれる名で、この時は元禄七、八年から十二、三年の間に活躍した三代目にあたる「薄雲」という女だった。(最近、出された吉原の遊女の本は、内容がはなはだいい加減である。ただし板本程度ゆえに事実に即した内容とはならないものなのかもしれない)
この薄雲太夫は日頃から三毛の小猫を愛翫し、緋色の首輪に金の鈴をつけてかわいがっていた。そしてそのことは当時の人々にも広く知られるところであった。

その猫の中でも、特になついていた一匹は、朝も夕も薄雲から離れない。夜は寝間まで入ってきて片時も離れず外に出ようとしない。春の夜などで野良猫がさかるようになっても、その声にも見向きもしないで、じっと傍らにいて神妙にしている。なんとも愛らしいことと薄雲は喜び、ますますその猫を可愛がった。

大小の用たしにかわやに行くときもこの猫はなおいっそう側にいようとする。かわやの中に入れよとうるさいので、仕方なくその通りにしてかわやまにも連れて行くようになった。

そうなると人々はある噂を立てるようになった。「昔から猫は陰獣といって、はなはだしく魔事をなすものだ。薄雲の容貌がうるわしいので、猫に目をつけられたのだろう」と誰か一人が言いだし、たちまちのうちにそれが人々の口にのぼるようになって、「薄雲は猫に魅入られた」と言い囃されるようになった。

今回のポイントは、薄雲が好んだ猫は「三毛」で、しかも「緋色の首玉」に「金の鈴」ってことだね。
これってまさしく「招き猫」でしょう。おそらくこのあたりで「招き猫」と関連づけられたのだろう。

ところで猫好きの人なら知っていると思うけれど、三毛猫ってほとんどがメスで、オスは滅多にいないんだよね。
だからふつうに考えれば、この薄雲の猫もメスだったはず。オスだったら逆にそのことが言及されてなきゃおかしい。三毛のオスはそれだけで珍重される。高価な取引きがなされてたと言われるぐらいなんだから。

実はこの薄雲の猫好きについては、あの曲亭馬琴も『巷談坡堤庵』という読本の中で取り上げている。

だがそこには「牡猫」とは書かれいるけれど、とりたてて「三毛だった」とは書いてない。
この話では薄雲が惚れた男の、子を懐妊するのだけれど、周囲には誰の子かを言わないものだから、「猫の子を身ごもった」と噂されたって話になっている。
しかもこのあと薄雲は男に振られて自害してしまう。もちろんこれは馬琴流のフィクションなのだろうが。

薄雲の活躍していた時代は『著聞集』の記述通りなら元禄7年(1694)から元禄13(1700)年の6年間。
年季明けの元禄14年には「忠臣蔵」の松の廊下の事件が起こり、浅野の殿様が切腹することになる。
「京町の猫通ひけり揚屋町」の句を作った宝井其角も、赤穂浪士の大高源吾と仲が良く、「年の瀬や水の流れも人の身も」と「あした待たるるこの宝船」のやりとりで討ち入りの日がわかるくだりは、いかにも江戸っ子が好みそうな話だ。

その50年後に『近世江都著聞集』(宝暦七年 1757)が書かれ、さらに50年後、馬琴が読本(文化五年 1808)を書いているので、三代目薄雲太夫の猫好きの話は100年経っても有名だったってことだろう。

つまりここまでの話はおそらく史実に近いのだろう。
三代目薄雲太夫は猫好きだった。そしてそののちもしばらくの間、超人気女郎の薄雲太夫にあやかって猫を飼う遊女がたくさんでてきた。

だけど『著聞集』はこっから奇っ怪な話を続けるんだね。
といってもよくある報恩譚の一種でもあるんだけど。