「名前のない女たち」AVレビュー 

  • [2007/06/19 23:56]

AVopenチャレンジステージ「名前のない女たち」は、大阪の下町・十三から始まる。

1.中村淳彦が真咲ぴぃ子との待ち合わせ時間より早く着いてしまう。
2.ぴぃ子のいるデリヘルに 名乗らず潜入。
3.待ち合わせ場所に行き、ぴぃ子とあらためて挨拶。インタビューの開始。「欲されたい」
4.時間は少し進んで、AV女優として東京に出てきてしまうぴぃ子。
5.ゴールドマンとの言葉責めハメ撮り本番 顔射
6.時間は遡り 3の続き 「欲されたい」のはどうしてか。彼女の生い立ちが語られる。
7.大阪のぴぃ子の部屋 ハメ撮り 腹射
8.翌日、昼に妹が部屋に遊びに来る。2人で家族のことを語る。

ここまでが大賀麻郎登場前のあらすじ。
表4にある「摂食障害・リスカット・DV・家庭崩壊・SEX依存・軽うつ症」など、ぴぃ子の身の上話が赤裸々に語られていく。
話の中身はともかく、中村淳彦の「普通感覚」からの驚きや意識のズレが、さらに彼女の内面をうまく引き出していく。

中村が「どうして自傷行為をするのか」聞くと、彼女は「欲されたい、欲されたかった。淋しかった」と言う。
この「欲されたい」という言葉が前半埋め尽くされる。

欲される 「初体験が小六なんです。
どんな形であれ、欲されることを知って。
求められることを知って、求められることを欲するようになった」

誰といても
「誰といても、なんか満たされてる感がなくてぇ、いつか要らなくなっちゃう違うんかなぁ、と今でも思う。どんだけ好きって言ってくれてもぉ、何回、そんなアツい気持ち、男女を問わず、手紙もらっても、ハイヒールはいても、満足はなかった。女になろうとした次は。大人じゃなくて、人にぃ、欲される女ぁ? 男ぁ、欲しがる女、あきひん女…」

東京に来てとうとうAV女優になってしまったぴぃ子に、中村は次のような質問をぶつける。

中村
欲され具合が足りないってこと?
ぴぃ
ウン。
中村
欲され具合が足りないっていうのはどういうこと?
ぴぃ
なんか、存在意義を探してる、ずっと、多分。
中村
いや何で、自分1人だと、何で、存在意義ってわかんないもんなの?
ぴぃ
わからない。
中村
えっえええーー。
ぴぃ
でも………、わかんない。わからへん。何のためもあるし、どこにいったらいいんかわからへんし。もちろん、汚い…くはないかなぁ。お金も欲しかったりするし。お金、欲しいし。でもなんか、欲されたい、とにかく。

そして、いよいよカリスマ竿師・太賀麻郎の登場。

10.再び東京 太賀麻郎と顔合わせ
11.買い物 車の中でアイスを食べいろいろ話しかける太賀
12.ベッド 太賀との本番 しかし激しく拒否をするぴぃ子

最初の顔合わせの時から、2人の波長はあっていないように見えた。
決定的なのは次のやりとりから。

ぴぃ
エッチて結構、勝負事じゃないですか。
太賀
ん?勝負事。
ぴぃ
勝負じゃないですか?
太賀
勝負なの?
ぴぃ
SEXって。
太賀
勝負って、なんの勝負?
ぴぃ
なんか、けっこう、なん、なんて言ったらわからへんけど、なんか勝負みたいな感じがする。
太賀
ま、負けぇ? だって、勝ち負けがあるってことでしょ、勝負って。
ぴぃ
そう、やし、エッチをしたところで、どんだけ好きな人とでも、好きじゃない人とでも、しても絶対につながることなんてないもん。
太賀
えっ、つながんないの?
ぴぃ
うん。
太賀
じゃBまでだ。
ぴぃ
だから虚しーくなる。
太賀
えっなんでつながんないの? だって、つなが、ポコチン入れてるんでしょう? それって さぁ。
ぴぃ
ただの凸と凹で融合はしない。
太賀
ああ、なるほどね、それじゃダメだね。
中村
つながり持ちたいと思わないの?
ぴぃ
相手とですか?
太賀
うん。つながりって要するに、そのSEXしている間だけでもだよ。あのぉ、融合したら本人だよ。相手とも自分も本人ってことになる。
ぴぃ
でも融合することなんてないんやもん。
太賀
なんでないのぉ?
ぴぃ
そーあたしが感じないからぁ。
太賀
はぁ…。融合してみたらいいんだょ。ったらまったく、…あのぅ、別もんだから。そういうオナニーとかそういう快楽のみっていうのと。
ぴぃ
でも、自分が「この人」と思う人もいないし、別に好きでもない人と、融合とか、したいと思わんけど。
太賀
でも、はじめからあきらめてるのと、そういうことがあるかもしれないって思っているのと随分違うよね。
ぴぃ
でも、そんなん、なんやろ、アタ、数を打ったら、アタるやろうけど、そこまでしたいとは思わないし、興味がないし、面倒くさい。

このあとカリスマからいろいろ近寄ってはいくのだが、どこかうわの空のぴぃ子。このままうまくいくとはなかなか思えない展開。

神聖な部分 そして、カリスマを拒否。
問題のあのシーン。

「人には神聖な部分が絶対にあって、それが、それをさらけだすのが仕事であろうが、それで私が明日、自殺してしまったら、中村さん、どうする?
どうすんの、ほんまに?」

人には誰にも入ってはならない神聖な領域がある。

それを「人権」だとか、「人格の尊重」だとか、「パーソナルスペース」だとかいろいろいうが、とにかくそこは神聖にして犯さざるべき禁断の領域なのだ。

古来、その神聖な場所に入れるのは、「神」か「仏」か「悪鬼・魔民」のようなものだけなのだろう。そこは当人ですら特殊な意匠を身にまとわなければ入っていくことができない。
ぴぃ子が頻繁に化粧をしまくるのはそういうことなのかもしれない。

だからもしその聖域を、他人に土足で踏み込まれようものならとても生きてはいけない。世俗の言葉で穢されたら人は死ななくてはならない。

真咲ぴぃ子のあの言葉はそういう追いつめられた人の言葉だった。
あれは祈りの言葉だろうか? それとも呪いの言葉か。
おそらく当人もよくわかっていないだろう。

とにかく凄いドラマだ。

ただ、なぜこのような事態になったのか。
カリスマもよくわかっていないんじゃないだろうか。

自分はこれを見て、学生の頃読んだあるエッセイを思い出した。
上野千鶴子の「京都の街にガイジンとして暮らす」の中にある次の一節だ。

関西人はコトバを信じない。相手の言うことに、ひとしきりじっと聞き入ったあとで、こう反応する――「で、どないですねん」。言われた方は、困惑してアゼンとする。たったいま、全部言ったところでしょう。えっ、聞きました、で、どないですねん。東京人は、ここで呆然として、匙を投げる。関西人には、ニホンゴが通じない。――私は、そう言って嘆く東京モンを、たくさん知っている。そこには、タテマエはタテマエとして聞いた上で、コトバを額面通りには信じない、二重底のしたたかさがある。この態度は、タテマエをくずして、ホンネで生きよう、というナイーブさとも違う。関西人は、タテマエを信じないのと同じくらい、ホンネをも信じない。関西人が信じているのは、タテマエとホンネのずれだけである。

上野千鶴子『女遊び』所収 1988 学陽書房

これと同じことがこの作品でも展開されていた。

太賀
日記にも書いてあったけど、逃げてるって。でも、逃げ回ってても、いつまでたたって、ゴールできないもんね。スタートラインについてないから。
ぴぃ
何がスタートなんですかぁ? じゃ、スタートがあるんやったら、ゴールも絶対あるはず。
太賀
そうだよ、そうだよ。まず、スタートラインにつけば、ゴールは、いずれはするんだ、絶対。
ぴぃ
なんで、どこ、どっかに、何で向かわなあかんの?
太賀
いや、別にいかなくたっていいってことよ。
ぴぃ
じゃあ、いいんじゃない。
太賀
ん、だけど、あなたが生きてて、行動しているわけじゃない。そうでしょ、ビデオに出るんだって、自分自身はあったわけでしょう。でも、何かをするってことは、かならずそういうことが生じるんだよね。廻りの人もそれでうごくわけでしょ。
ぴぃ
うん。
太賀
したらさ、それなりに責任が生じるわけだよ。俺、責任、大嫌いだけどね。ホントは、ぴぃ子ちゃんはわかってるんだと思う…。
ぴぃ
わからん! 言ってることはわかるけど、わからん。
太賀
うん、うん。
ぴぃ
「だから何?」ってなっちゃう。
太賀
いや、「だから何」なんだよ。
ぴぃ
「だから何?」って…
太賀
「人生って何?」ってさぁ、俺は思うけどさぁ、そんなのわかんないよね。それね今と向き合ってないからだって。
ぴぃ
何で向き合わなあかんの?
太賀
先に進んでるから。人間、死ぬまで生きないといけないから。
ぴぃ
別に向き合わんでも、先には進むしぃ…
太賀
進まない!
ぴぃ
すすむ…
太賀
日にちは、日にちは経ってくしぃ、体も年取ってくよ。でも中身は何も変わってないと思うよ。それは気づいたときにスタートラインについてないからだと思う!
ぴぃ
でも、変わりたいと願ってない…
太賀
かわら、んいいとも思うよ。変わらなくてもいいと思う。いつまでもそのままでいいと思うよ。ピーターパンみたいにね、子どもで、ずっと、いた、いたいと思う、俺も。

めずらしく太賀が女のコに声を荒げるシーンがある。
相当、イライラしてたんだろうね。
最後の方は皮肉まじりの言葉を言ってるし。

問題はなぜ、あのカリスマのいつもの理屈がぴぃ子には通じなかったのか。
自分は東京モンのノリで大阪娘と接してしまったからじゃないかと思った。

上野千鶴子は、アメリカでのコミュニケーションセミナーの話を引いて、こうまとめる。

そのプログラムの中で、心理学者が受講生にアドバイスするのは、こういうことだ――コトバはウソをつく。カラダはウソをつかない。だから人間関係をうまくやりたいと思ったら、結局カラダの方にコトバを、つまりホンネの方にタテマエを合わせて、率直にわかり合えるように努力しなさい。

この「コトバはウソをつく。カラダはウソをつかない」というフレーズ、以前、このブログにも同じようなことをコメントしてくれた人がいた。
自分も、この理屈は全く正しいと思う。
少なくても東京では。

でも大阪・十三育ちの真咲ぴぃ子に、これは通じなかったんじゃないだろうか。

上野千鶴子はさらにこう続ける。

私はそれを聞きながら、関西人ならこういう時、どういうアドバイスをするだろうか、と考えていた。タテマエとホンネにずれがあって当たりまえ、だとしたら、そのずれを埋めなさいという助言は、いかにもアメリカ人的な単純率直さに思われる。関西人なら、ずれはずれのままで置いといて、そのずれを自覚し、操作しなさい、というのではないだろうか。

最後に、真咲ぴぃ子は太賀とのものすごいいやらしいエッチを展開する。
「死ぬ」とまで言って拒絶した真咲ぴぃ子が、なぜ急に態度をあらため本番をすることができたのか。
その理由は、まさにこの「タテマエとホンネにずれがあって当たりまえ」ということを、彼女なりに受け入れることができたからではないか。
彼女はナカムラさんを呪い、自分を呪ったと同時に、自分自身を言祝いで、新たな自分を受け入れたのではないだろうか。
関西の女は強いのである。

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