blogの文章も距離感が必要なんだなぁ。 

  • [2007/06/07 14:10]

blogという形で「ボヤキの小窓」を開設してちょうど1年。
そのあいだ、ここもかなり変遷してきている。

もともとは、淫語マニュアルのトップページに小さなフレームを作り、伝言ともグチともつかないことを書いてきた。
06/04/24付けの記事がそのはじまり。いわゆる囲み記事みたいなもん。文章もそれなりに短い。
当時は、データの更新が今よりも頻繁にあった。ほぼ毎日更新していた。
総評はかなり短く、申し訳程度に書いていたし、抽出するデータも今より少なかった。
あの頃は、楽だったなぁ。更新作業も全部で1時間ぐらいだった。
今みたいに、気合いを入れてAVを見て、よく「聴いて」、さぁデータを採るゾ!ってことではなかった。

その淫語マニュアルの囲み記事をこのblogに移動したのが去年の今日。
06/06/07の記事に書いてあるとおり。

まだこの段階では、本サイトに最初の段落だけ載せたりしながら、同じコンテンツを載っけていくつもりだった。
だから、書く長さも自ずと縛りがあった。

でもすぐにいろんなことを自由にたくさん書きたくなってきた。
それが06/06/10の記事

そして、自宅サーバーを作りたい、もっといろいろ勉強しようなどと思ったり、A8やAmazonのアフィリエイトに申し込んで審査がパスしなくて激しくヘコんだりとかして、気持ち的にも紆余曲折をたどり、あえて普通の本とか映画のこととかも書いてみたり、まぁいろいろやった。

結局、振り分けとか面倒くさくなり、アフィリのバリューコマース担当の人のアドバイスもあって、最終的に06/09/01の淫語マニュアル リニューアル時に独立させて今に至っている。

blogを書きながらつくづく思いしらされたのは、いかに自分の文章は人様に読んでもらえるレベルではないか、ということ。

日頃から、日記とかはつけていたんだけど、やはり人に読んでもらうことを意識していないから、ものすごくユルユルで贅肉もつきまくり。しかもへんに傲慢で、でもおもねってもいて、らしくない格好をつけてみたり、無理して自分の中にない言葉を捻ってみたり、こんな見栄っ張りな文章はイヤだぁ!なんて思いつつ、でも要はこの自意識が問題なんだよなぁと考えたりもして、もう意識するのはやめようと思い直すんだけど、かといってあらためて一読者のつもりで読んでみると、自分が通りすがりの人間なら「未熟だなぁ」、「いくつなんだ、お前」とか思ってしまうのは間違いないところだし、blogにアップする度に、文章のテンポが悪かったりなんだりで、何度も書き直して更新し直すんだけど、なかなかうまくいかなくて、ものすごく不憫な息子を見るようで、昔、北条氏康が小田原城で自分の息子と茶漬けを食ったとき、その息子の茶湯のかけ加減を見て泣いたっていう有名な話があるけど、そういう心境にも似た、なんともいえない不憫な出来損ないの分身を見せつけられているようで、「てにをは」もうまくつけられていないし、主語の後に続く助詞を、「は」にするか「が」にするかでいつも混乱するし、とっちらかって「を」とかにしちゃっていたり、「ら抜き言葉」を意外に使っていたり、読点にいたっては文節ごとに入れたくなるしで、しかもボキャブラリーが少ないじゃないか、あん? 昔、西村寿行がやたら「双眸」だとか「眼光紙背」だとか、いつも決まった言葉しか使ってなくて、「この人、教養なさ過ぎ」とか思って読む度に、ウンザリしてたんだけど、自分も似たようなもんじゃねぇかって、そのあまりの不甲斐なさに愕然として、これではいかんと書きまくっているんだけど、なかなかうまくならない。
今、こうやって書いているあいだにも、何度も、アップしちゃー書き直し、アップしちゃー書き直し、いい加減、疲れた。

まぁそうやって文章と遊びながらどうにかこうにか1年を迎えた。

結局、blogにはblog向きの文章っていうのがあるようだ。

この一年間、いろんな人のblogを読みまくったんだけど、たとえば東良さんのblogなんて、実際に本になっている文章とは書き方がまるきり違っている。
特に、2005年、最初の頃の文章は、時折、妙な照れ隠しみたいなものが語尾に含まれていて、ちょっと面白いと思ったりした。
それで自分も一時期、真似て書いたりしてたんだけど、東良さんのようには、なかなかうまくいかない。
やっぱり、あまり人の真似をしないで普通に書くべきなのかもしれない。
へんに力が入っている文章はよくないものね、それがどんなに面白そうでも。

あと、文章の書き分けね。
東良さんがよくやる料理のレシピ時は、東良さんの文章に含有される照れ隠し度が増すような気がする。
あれは何か意識的に使い分けているのか。
つまり照れ隠しとかそういうんじゃなくて、違った効果をねらっているのか?
本当のところはどうなんだろう?

藩金蓮さんにいたっては、間違いなく文の調子を談話ごとに変えている。
ここまでくるとこの人は実はプロの作家なんじゃないかと思えてくる。彼女より下手くそなライターなんていっぱいいるもんねぇ。
くだけた書き方も「きっこの日記」なんかより全然いい。
職業柄、大勢の、しかもいろんな人を相手に、観光ガイドをして廻る人だから、普段からこういう言語感覚が磨かれてしまうのかもしれない。
もともと関西の人って、その会話からして、東京の人間より相手を意識した言葉遣いをしている印象がある。
だから、そういう西日本文化の気風が、そこにはあるのかもしれないなぁ。

なんてことを考えていたら、アロマの「関西っ娘」を作る気になった。(ウソ)